ネットの中に蔓延する正義症候群の人たち


私はネットは楽しくあるべきだと思っています。正しさは、正しい知識、という場面でのみ必要なことであって、誰かを必要以上に貶めるように叩く、というのは無意味な行為だと思います。間違ったことを大々的に発信していたとしても、あるいは、どんな差別的な発言をしていたとしても、その人のことを無視したり、そういう人なんだ、と受け入れるだけでよいと思っています。なぜなら、ネットの世界の出来事は、直接的に私、あるいは個人の生活に影響しない、非常にバーチャルなことだからです。

しかしながら、ネットの世界を見ていると、必要以上に正論を言う人が多く見られます。こういう人たちを見ていると、なんだか悲しい気持ちになってきます。嫌なら見なければよいのに、というだけのことだからです(彼らと同じで、私も彼らを無視すればよい、というのはそのとおりです)。

では彼らはどうしてわざわざ必要以上の正義を語るのでしょうか。私はそれは「彼らは共感を求めている」からだと考えています。共感を得るためには、何かしらの意見が必要であり、人から叩かれることを恐れる人は正義という防御を被った上でしか人に意見を言うことができないからです。ここで、彼らにとって必要なのは大多数の共感なので「どうでもいい。まあ、そういうものだよね」という極々当たり前の感情は表現できません。「どうでもいい」と考えている人たちは、そもそもそんな出来事に対してなんの関心もないので「どうでもいい」という発信に対して、いいね、のような「共感ポイント」が得られないからです。

結果、そこに現れるのは、正義を語る人々の集合体です。「どうでもいい」と感じているサイレントマジョリティは集合体として現れません。正義を語る人の自意識は集団の力を借りた共感ポイントによってますます増大していき、あたかも自分の力が増大したような感覚を覚えます。実際、影響力はそれなりに増大しているのでしょう。ですが、それでよいのでしょうか?

例えばテレビ業界が今、落ち目であることは誰の目にも明らかだと思います。ネットが発展したことによって今まで感じていたテレビって何かおかしいよねと言うところが、露呈してきました。テレビがおかしいと言うのはある意味でもはや常識ですらあるといえるかと思います。そんな中、今更テレビっておかしい、マスコミって変だ、と言うふうによってたかって戦うのはそれこそおかしく、品のない行為ではないでしょうか。例なので、あまりタイムリーな話ではないかもしれませんが。

もちろん、表現の自由があるので誰がどんな意見を発信しても基本的には自由です。品のない行為も決して悪いことではありません。しかし、もしも自分の思考に対して「あ、これならいいね!がもらえそう」と考えて、本来は「どうでもいい」と感じるニュースでさえも、過剰に正義を振りかざすように反応しているのだとしたら、それは仮想的な周りの目に支配されていることにはならないでしょうか? 私は、その不自由さが見ていてたまらなく悲しいのです。

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