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【自己紹介(大雑把に)】

一体何が起きたというのか?

俳優を目指し遥々上京した私だが、ふと気付けばとある機器メーカーに正社員として勤め、一丁前に接客業をこなしていた。
正確に思い出せるか自信も朧ではあるが、気持ちの整理の意味も込め、これまでの人生を思い返してみようと思う。

1984年6月27日!
千葉県は茂原市の育成病院にて生を受け、息つく暇もなく父方の故郷・福島県は平田村にAmazonのダンボールの如く運搬された私。

性は吉田、名は拓郎。

おい!初子につける名前が吉田拓郎て!
フォークソングの神様とまるかぶりやないかい!これが完全に母の仕業であることをカミングアウトされたのは、私がまだサンタクロースを信じていた小学1年、若葉どころか新芽の頃であった。(父方の親族は誰も反対しなかったのだろうか)

幸いなことに陰湿ないじめや大事故に遭うこともなく奇跡的な速度で中学・高校と偉大なる未来に向け、海賊船“ヨシダタクロー号”は帆を切っていた。

そして高校2年の終わり、忘れもしない、あれは粉雪が舞う【2002年1月19日】だった。

真夜中に突然、「俳優になりたい!」

そう天啓に打たれるがまま決意した。
あの稲妻のような衝撃の夜が、その先に私を待ち受ける数多の辛い経験にも打ち克つ糧となっていたことは、まず疑いようがない事実である。

舞台は2003年!
俳優を目指した吉田拓郎は、花の都・東京へ。
あの爆笑問題、三谷幸喜、菅賢治、林真理子、青山剛昌、その他多くの業界人を輩出している日大芸術学部の演劇学科に入学することに成功した。

瞬く間に学園のトップアイドルとなり、淡く儚い青春を謳歌した吉田拓郎。
ヘアスタイルの派手さからか大抵のオーディションは合格、出演したCMは渋谷と秋葉原の駅前ハイビジョンにて半年以上にわたり放映されていた。
時にはその当時のトップオブトップの女性アイドルから熱いラブコールを受け、共演したイケメン俳優から実は超有名女優と付き合っていると告白され、人気声優のアメブロに私の写真がひとたび載れば、街では若者から握手を求められるようなった。

まるでドラマのような展開じゃないか!
まるで漫画のような展開じゃないか!
まるで夢のような展開じゃないか!

そう、まさにその通りである。
漫画や、夢。それらには、必ず “終わり” がある。

2013年!
芸能生活11年目。俳優・吉田拓郎は、信じられないくらい貧乏になっていた。コンスタントに舞台には立っていた。がしかし、やはり俳優業のみでご飯を食べていくのは困難なのだ。

36000円の家賃も払えず生活に困窮した吉田は、知人の誘いで就職した。いや、状況として就職せざるを得なかったのだ。

“貧すれば鈍する”

私は、それまでの俳優としての慎ましくも輝かしいキャリアと生活の豊かさを天秤にかけ、夢を、そして目標を中野の駅前にかなぐり捨ててしまった。

稲妻が走ったあの【2002年の1月19日】の夜。あれから11年の月日が経とうとしていた。
17歳の青年は、今にも30代の坂を登らんとする立派な大人になっていた。


そして現在・・・一体何が起きたというのか?

就職してからどれ程の季節が過ぎ去ったであろう。
私は完全に社畜となり、上司の操り人形となり、ただただ会社からサラリーを貰うためだけのマンになっていた。
これは、本当に現実なのであろうか?地獄でもここよりはいくばくか快適なのではないのか?
演技の世界から遠く離れた私を待っていたのは、日々、死を待つだけの生活だった。
年収は以前の3倍を超えていたが、幸福度は以前と比較にならぬほど下落したと肌感覚でわかっていた。

そんな私を憂いてからか、少し前に俳優仲間から誘われ、とあるYouTubeのライブ配信イベントにゲスト出演する機会があった。
私が俳優時代から苦楽を共にしてきたメンバーだ。

そのスタジオに見知らぬ若者、明らかに未成年の男子が1人いた。
突然、俳優仲間から彼の紹介を受けた。しかしながら、正直言って全く記憶にない人物だった。

説明を受けるに、どうやら彼は我々が過去に催した公演を観たことがあるらしい。

するとその若者は、若さと歓喜を漲らせたまっすぐな瞳で私のことを見つめ、

「初めまして!◯◯と申します!僕はあの公演の吉田拓郎さん達のお芝居を観て、俳優を目指そうと思ったんです!今年で高校三年生、18歳になります!」

そう大きな声で、ハッキリと口にした。

一瞬、戸惑いと混乱で頭の中がこんがらがってしまった。

その当時、彼は小学5年生であったらしい。
父親に連れられるがまま、偶然我々の公演を観劇して、衝撃を受け、何度も公演のDVDを観ては幼い俳優への夢を育んでいったのだ。
驚いたことに、当時の私の役の台詞を、彼は一言一句間違えずに覚えていた。

「吉田さんは今お芝居から離れられていると聞きましたが、必ず帰ってきてください。舞台で共演したいです!」


私は稲妻に打たれるような強い経験をしたことが、人生で二度ある。

一つ目に、自身の名前が母親の細やかな陰謀によりフォークソングの神様と同姓同名にさせられたこと、
二つ目に、人間は誰しもがいつか必ず“死ぬ”のだと知ってしまった小学四年生、

そしてこれは、間違いなく三度目の稲妻体験だ。
まさか、“自分が何者であるのか”を、自分の芝居を観たことがある人間から教えてもらう夜が来るなんて。

「わかった。必ず共演しよう!」

私は改めて芸能界に挑戦する決断をした。
そして、安堵した彼の背中を見つめながら、心の中でそっと呟いた。

「私は老いた。だがしかし、君に未だ教えてやれることがある。勿論、ここでは言えない。それはいつの日か、本番中の背中で語ってやる」

・・・そして今、どういうわけか私はタイタンの学校にてお笑い芸人の修行をしている。

どうやら私の迷走は、まだ始まったばかりのようだ。

全くもって、やれやれな男である。

タイタンの学校/芸人コース

帰ってきた吉田拓郎

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