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「支えや癒し」のニーズは高まり続けているはずなのに、実際の世界を埋め尽くす孤独の総量は、年々増えている

あなたがどんな暮らしをしているかは知らないが「支えてくれるひと」がいるとずいぶん違うのは確かだ。

「大事な誰か」がいると情勢が悪いときはギリギリ自分を諦めない救いになる。

これは別に男女の関係だけでなく、男同士でも命綱になる。「大事なツレ」でいいし「忠誠を誓っている主君」でもいいし「面倒見なくてはいけない後輩」でもいい。

もちろん自分を奮い立たせるのは、結局自分自身しかいないのもまた事実だ。「大事な誰か」が支えられる重量には限界があるからだ。

キツイ時期、自分に同情しすぎても力が目減りするし、同情したところで一歩も進まない。「かわいそうなワタシ!」という考え方、被害者意識は何も生まない。

街を歩くと「癒し」を売るビジネスが乱立している。

たしかに僕も癒しが欲しくなるときもある。

だけど半分近くは自分に言っているが、「俺を癒せよ」という癒されたがりを見ると、異様に冷めるのだ。

傷や孤独が自分の中のおとこを殺すときがあるのも分かるし、そのまま線路に飛び込む中高年の数の膨大さにも圧倒される。

それにしても中高年ならいざ知らず、まだ二十代、三十代の男ならば、疲労困憊すぎないだろうか。

「癒されようとしすぎでは」「支えられようとされすぎでは」と思わずにはいられない。

「支え」が足りないのだろうか。

「支えや癒し」と巡り合う確率はインターネット黎明期以降、高まり続けているはずなのに、実際の世界を埋め尽くす孤独の総量は、年々増えている気がする。

そしてその孤独を安易な方法で埋めてしまえるサービスも溢れかえっている。

もはや癒されすぎて、傷や孤独と格闘する闘志が萎えきってしまっていないだろうか。

人間には色々な季節がある。

支えられようとしすぎな時期だって来る。毎日シャカリキにもなれないし、折れてしまうタイミングもある。

だが、ツケはツケとしてガッツリ利息付きで溜まる。

すると次第にいろいろ間違えだす。

ギブアンドテイクではなく、「ギブ・ギブ・ギブ」の精神だとうまくいくと言うが、ツケが溜まると「テイクが前のめりすぎる野郎」になってくる。

うまくいかないどころか、親友にもウザがられる。

あなたは様々なひとに支えられている自覚も要るが、あなたが様々なひとを支えている自覚も絶対必要なのだ。

誰しもが誰かを支えているはずだ。ヒモだってニートだって犯罪者だって、どこかの誰かを支えるているのだ。

「誰一人支えている覚えなどございません!」という厚顔ゴリゴリだと浮く。かなり、プカリと浮く。

「自分だって誰かを支えているのだ」と気付くと、ほんのり自信と誇りが心に粟立つ。

そして「助けになってやりたい」と思うやつもいれば、「こいつは支えたくないなぁ」と呆れるやつもいることに気付く。後者を反面教師にできるようになるのだ。

僕もあなたも誰かのためになっている。そう思うだけでなんとなく疲れが取れたりしないだろうか。やはり人間は誰かの役に立つと嬉しいのだろう。

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