子どもの世界特有の「面白かったら何でもいい」ということがどれほど自分を生かしてきただろう。

人間が働く理由は大きく二つある。
・褒められたいから働く。
・賃金が欲しい

承認欲求が強いひとは褒められたいから、自分本位のひとは賃金が得られるから。だから働く。

これが極端な例で、実際ほとんどのひとはこれらの中間にあると思う。「褒められたいし、賃金もほしい」その両方のために働くのだろう。

社会的に認知されることで心理的安全性が保たれ、経済的に潤沢になればよりその安全性は担保されることになる。

これをすごくライトに伝えると「褒め」と「金欲しい」になる。ふたつに共通しているのが、いわゆる「こだわり」だ。「自分のこだわり」という意味で両者は同じである。

このこだわりを緩めることで、極端な理想が中庸に寄ってくる。結果として双方の効果、両方を得ることができる。

だから、「そんなにこだわらなくてええやん」という言い草はどちら寄りの人間にも通じる。 だいたいの悩みは中庸により解決がもたらされる。

そもそも「どちらにする?」という問いは苦しみを生み出しがちだ。

人生は究極の選択を減らせば減らすほど、ラクになると思っている。こだわりを捨てると、ストレスも吹き飛んでいく。
横たわっている苦悩は「どっちでもいい」ことばかりだ。大学に行こうがフリーターになろうが、生もうが堕ろそうが「どちらでもいい、どちらを選んでも良い」のだ。

そしてもっと大事なことは自分にこだわることをやめると、結果的に、他者に対して優しくなっている点だ。

これは相対的なものだとは思うけれど、こだわりを捨てると、世界が少し変わったようにも見える。周囲にも、自分にも効果が広がるだろう。

我慢をするのではなく、効果を狙った作戦でもなく、単に「こだわることをやめる」というだけなのだ。 「どうでもいい。それはそれでいいし、あれはあれでいい。どっちもおもろそう」というスタンスが優しさをモリモリ作るのだ。

別の言葉でいうと、「それが自由という形だから、ちょっと面白そうだし、新しいからやってみたよ」なんてところだ。

褒められたかったからでもなく、損得でもなく、「面白そうだからやりました」というアクションは子ども頃のほうが多かったはずだ。

大人になると自分の自由さを忘れていくからだ。「無駄なことはしない」という暗黙のルールに縛られている状態でもあるし、言うなれば大人という存在にこだわっているのだ。

子どもの世界特有の「面白かったら何でもいい」ということがどれほど自分を生かしてきただろう。
僕が自害を人生の選択肢に入れ始めたのは、十歳ぐらいだった。少なくとも五歳の頃、人生は輝かしくて仕方なかった。

死んだらそれまでなのだが、行かないとならない。「受け入れられないぐらい何なのだ」というつもりで、「通用しないぐらい何なのだ」という開き直りで進めないといけない。

弱い自分で進めていく。必ずなんとかなる。


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