「いいとこね!」と言ってもらえた

自分の好きな場所を「いいとこね!」と言ってもらえた。十年以上前にもらえたそんな言葉が今も自分を支えている。そんなことはありませんか。そんなお話です。

1.学校には行けなかった。でも引きこもりと呼ばれたくない。僕は中学二年生だった。

登山道は木々が茂り、油蝉は命がけで叫んでいた。しばらく曲がりくねった道が続き、その後には直線的な急勾配が立ちはだかる過酷な坂路だった。

猛暑の登坂に息切れは激しくなり、Tシャツは赤ん坊のよだれかけのごとく首元がびっしょり濡れた。しかし清々しさが上回り、不思議と笑顔になってしまう気持ちのいい時間だった。

山頂に座する神社は、いきなり扉を開けたような現れ方で、爽快な戦標を禁じることができなかった。

無人なのでがらんとした寂しさはあるが不気味さはない。建造物というよりは「作品」のような精錬されたものだった。肋骨の中で心臓が小躍りしていた。この立地と道の険しさでは、誰にも知られていないのではないかと思った。

風の音が近く、登山道から聞こえる弾の声は遠くなっていた。合奏の配置は芸術的で、息を吸い込むと音を体に取り込めそうだった。

神社の隣には『展望やぐら』があり、ニュータウンまで一望できた。自然と人工が調和した風景は、一瞬にして心が浮き立つ眺めだった。

僕のすべてだった町も空から眺めると箱庭を思わせるほど小さかった。そこに住む人の心どころか、これからの未来までもが見通せそうだった。

「運動部のやつらは泥と汗にまみれて、今ごろ練習してるのか」
「このままどうなるのか」
「これじゃいけないのか」
「でも俺はいったい、何がしたいんだろう」
「やりたいこともないし」
「そういえば女なんて好きになりたくないのに、女子ばかり目に入る。気色悪い」

思春期特有の葛藤すべてが胸に氾濫して苦しくなった。思わず目を閉じて、息を吸って、吐いた。
この完壁な景色の中に立ちながら、目を閉じるという賛沢と快楽を味わい尽くしていると、苦悩のすべてが些細なものに感じてきた。

携帯電話なんて持っておらず、時刻は分からなかった。空の色がだいだい色に染まり、風が冷たくなった頃、家路についた。
それからというもの、神社を訪れるのは日課になった。次第に登坂にも慣れ、不登校のわりに足腰が丈夫になっていった。

「ヤバイ場所見つけてもうてんけど連れてったろか?」
「マイルドセブンを吹かしながら偉そうに言った」
「何やねんそれ」
栗田が制服のポケットに手を突っ込みながら言った。
「とにかくヤバイ。いっぺんしょうもないとこから離れなあかん。そうせな、おもろいやつにはなれへん」
「別に、学校も部活もしょうもなくないけどな……」
「いや、しょうもない。特にお前の部活は。もうイチローも神戸におらんねんから」
「イチローは関係ないやろ」

中学校になってから友人と呼べる存在はできなかったが、幼馴染である栗田とは付き合いがかろうじて続いていた。

育った環境は似ていても人には資質というものがあるらしく、栗田は僕と対照的な人間だった。

学級委員長であり、野球部の一年生ピッチャー、成績は長田高校合格間違いなし。本人曰く、その後は阪大、神大、京大を狙うらしかなかった。
言うなれば、栗田は中等教育社会の頂点を極めていた。
栗田が中学生活という波を乗りこなせていることに、少なからず劣等感があった。そして将来的には栗田のような人物こそが「世間」というビッグウェーブをクリアしていくと肌で感じていた。

この成功者に何か一つぐらいは勝ちたかった。神社の魅力を伝えたかったのもあるが、「我こそはあの感性を包み込まれて、全身がアンテナになるような気持ちよさの発見者だ」と自慢したかったのだ。
「ようわからんけど、そんなおもろいとこなら明後日連れてってくれ」
「あしたはあかんのか?」
せっかちめいて言った。
「あのな川嶋、水曜しか部活休みないねん。朝練は毎日あるけど」
「一日ぐらいサボっても、そんなヘタクソにならへんやろ」
「そういう話ちゃうねん!」
「まぁ明後日行くんでもええけど、何時からにすんねん」
「放課後に決まってるやろ!」
「俺は朝でもええけど……」
「その生活がありえへんねん。ていうか何で登校拒否してんのに朝ちゃんと起きてんねん!」
「人間は朝起きて、夜寝る」
「そして学校に行く」
「それは行かん。何故なら行きたくないから」
栗田はため息に乗せて、「できる範囲でええからちゃんとしとけよ」と笑った。
水曜、僕と栗田は自転車を飛ばした。

かっとした初夏の陽射しは、地の底から緑の油を噴きあげていた。栓を抜いたみたいに汗が滝になって溢れてくる。高速で風を引き裂く音に負けないように声を張った会話は怒鳴り合いに近かった。

「まだ着かへんのか!もう三十分はこいでんぞ!」
栗田が大口を開けて叫んだ。
「あの野球部のクソ先公に怒鳴られながら、毎日走り回ってるんちゃうんか!」
「こんなに延々とチャリこぐ練習ないわ!て言うかなんでこんな全カでこぐねん!」
「ダラダラこいでたら夜になるやろ! それにおもくそ飛ばしたほうが疲れへんねん!」
「こっちは、朝練して、ちゃんと、授業受けてるから、こんな体力余ってへんのじゃ!」
栗田の呼吸は死にかけの金魚のように途切れ途切れになった。
「ほんだら学校行かんほうがええやんけ!あんなとこアホしか行かん!」
「行かなあかんねん!」
「なんでやねん!」
「なんでもクソもないやろ!ていうかそんな体力余ってんねんから学校来いや!」
「テレビ見てないんか!宅間守みたいなやつにブッ殺されたないねん!」
「なんで変態が突入してくる前提やねん!」
僕と栗田は枕投げのように大声を出し合いながら、小山のふもとへと到着した。

登坂になってから、栗田の文句には恨めしさが宿ってきた。
「これは、完全にクライミングやんけ、最初に言っとけや。しんど……蝉もうるさすぎ」
途中途中、栗田は息を整える陸上選手みたいに中腰になっていた。そのたびに足を止めてやった。
「なぁ栗田、お前ら階段の上り下りのトレーニングしてるやん」
学校に行っていた頃、雨の日、階段を走っていた野球部を見た。
「あ……?してるけど、それがどないしてん?」
「いや、あれと山登りどっちがキツイんかなって思って」
「こんなもんと、比べられへんやろ。あのな、川嶋、お前の中で野球部神格化しすぎ」
栗田は体を重々しく運んで言った。煽りのごとく木々から蝉の大声が鳴る。

「なぁ、栗田よ。野球部っていうのは、学校に君臨するクシャトリヤやろ」
「バラモンちゃうんか?」
蝉の合唱のせいで声が聞き取りづらかった。
「バラモンは先公やんけ。実際は夢も就活も面倒になっただけの、ガキにイキり倒してるだけの社会のアウトカーストやけど」
「お前、前世で教師に殺されでもしたんちゃうか」
「先に生まれただけのやつに、一方的に振る舞われんのが我慢ならんねん」
自分からユーモアの気配が消えていたことには気づいていた。
「もう、ここらで帰ろっかな……」
「おい栗田、こんなとこで一人置き去りにされたら俺は寂しくて死ぬぞ」
「うさぎか」
そう言ったきり、二人とも無言になり歩き続けた。

後ろから栗田のゼイゼイという声、というより喉の音が聞こえる。蝉の絶叫がそれを上回っていた。
僕の息も弾み始めた頃、登頂した。

接近するブルーと乾いた芝生、先刻の山道に生い茂っていた枝葉を振り乱した謹蒼とした木々も生えていないので、蝉の喚きも遠い。山頂は坂路に反比例して、穏やかな空間を演出していた。

伝令の馬を思わせるほど息を切らしていた栗田は、左右に足三足よろめくと、ばったりと芝に倒れた。
「立てるか?」
うおっと腹から声をひねり出して栗田は立ち上がった。
「お前、茂野吾郎か。海堂戦の」
「野球部やからな……あと海営堂戦じゃなくて陽花戦な」
「栗田、お前な。他人からやらされてる練習だけで満足してるんちゃうか?他人にやらされてた練習を努力とは言わんやろ。好きなことして飯食おうなんてずうずうしい特権、与えられた宿題こなした程度で手に入るわけないやろ」
丸暗記するほど読んだ『MAJOR』のセリフを棒読みした。
「いや、だから茂野吾郎かって。ていうか俺は別にプロ野球選手目指してへんわ」

栗田の言葉に返事をしないまま、やぐらへと向かった。栗田は後ろをついてきて、やぐらへの白木階段に足をかけた。

ドーム状の空が広がる。毎日眺めているがその日は雲一つなく、一際締麗だった。

いい風景を見ると呆然としてしまう。これは人類共通ではないだろうか。こんな景色を見ているだけで、ますます日常が遠のいていく気がしてならない。心と体が安らぎを覚えて、生まれたばかりの頃の正しい位置に矯正されるようだ。
「ほら、これヤバない?」
「あぁ……」
「小っさいこととかどうでもよくなってくるやん?こんなとこ近所にあってんぞ」

僕があまりに熱心に語るので、栗田は聴いているというより、その様子を見守っている風だった。
「うん、まぁ……ええと思うぞ?思うけど、そんなええか?」と栗田は言った。
「まぁええっていうか、ほら、こういうのって気持ちいいやんか。たまにやで。たまにやるとな」
照れにより逸らした目線は行き場がなくなり、笑ってごまかした「たまに」という言葉が非常口に避難した。

自分が未だかつて味わったことのない屈辱と哀しさが混ざった感情は、耳の裏を熱くして目まいを引き起こした。神社とやぐらは一番大切な場所だった。

学校にいても、グラウンドにいても、家にいても、どこにいても、自分が何者なのか分からなかった。 やぐらに登って、箱庭みたいな町を望んで、自らの心を受け止める。その時だけは自分自身を感じられた。
「なるほどな。まぁ早く帰ろうや」
カップ麺が完成するぐらいの時間が経ち、栗田が言った。
「せやな。あんま長くいてもな、しゃあないしな」
「また山道とチャリか、ダルイな」
「せやな。ダルイな」

怒れもせず、言い返せもしなかった。やり方が分からなかったし、やることでもないということだけは分かった。しかし宝物と僕のアイデンティティは泥まみれになった。

それから神社の話は誰にもしないと決めた。あの場所に感動している自分を恥ずかしいとさえ思った。 話したかったはずの場所は、誰にも話せない場所になった。

好きなものは検索しないほうがいい。
涙でページが濡れた本も、鳥肌が泡立ち震えた歌も、Amazonのレビューでは必ずボロクソに叩かれている。他人の嫌悪や悪意、無関心に「感動」は平気で蝕まれる。大切なものは自分の中だけで留めておくほうがいい。

しかし素晴らしいものを見たり、美味しいものを食べたりした時、「教えたいな。喜ぶだろうな」と思い浮かぶ人がいる。
それは一生に一人、二人しかいないのだろうけど、磁力として引き寄せられて巡り合う。僕たちはいつだって、そこにしがみつくしかないし、その手にぶら下がるしかない。

2.感動した!

二年生になり、ますます孤独は進んだ。
完全に地球上でひとりぼっちになった気がした。中二病という言葉があるが、あれは正確には「数え年で十四歳病」だ。学校に通おうが通うまいが、この年齢になると自意識が炎症を起こして、腫れ上がる。

神社に行く日は激減してしまった。そのせいで時間ばかりが生まれた。

人間というものは一年も社会から認識されていないと、自分との対話が増えてくる。

本を読み始めたり、ネットサーフィンをしたり、音楽を聴いたりと、とうもろこしを翻るみたいに片っ端から手をつけた。しかしインドアでの一人遊びは難航した。

まず哲学書や文芸書を読み始めた。しかし酒を飲みながら読むせいで、さっぱり理解できないのだ。素面で読んでも難しいバタイユだのセネカだのソクラテスだのをウイスキーをラッパ飲みしながら読むのだから解るわけがない。

酔っ払っていくと活字が踊り出し、天井は回転し、朝目覚めると茶色の液体でびしょ濡れになった本が転がっている。何十冊も読むには読んだが、内容は何一つ覚えていなかった。これほどつまらないことはない。

ネットサーフィンもFlash動画は笑えたが、BBSでの討論は潔癖な自意識が、匿名性の卑劣指数に耐え切れず離脱した。

それに比べて音楽は楽だったのだが、重大な問題があった。それは「流行に乗るわけにはいかない」という壁だった。「中二の自意識」というやつは融通がきかない性質があり、流行りと寝ることを許さなかった。

JーPOPを聴くのは敗北を意味するので、見境なく洋楽のCDをレンタルし、MDにコピーしていった。

OASIS、ブラー、レッチリ、NIRVANA、ジミヘン、クラッシュ、ピストルズ、ツェッペリン、ビートルズへと走った。

走ったはいいが、何が良いのかまったく分からなかった。英語を教わっていないので、歌詞という「良さ」への手がかりも見えず、鉱脈をダウジングで探すような旅だった。

だが、「中ニの自意識」 の命ずるまま「良い」ことにしなくてはならなかった。「中二の自意識」はソクラテスの弁明の前には敗れ去ったが、ここに敗けるわけにはいかなかった。たった四分、五分の曲である。しかも「古きロック」は外国では利口者というより、馬鹿向けにデザインされている娯楽だと聞いた。さらに不届き者や、アウトサイダー、ならず者、落ちこぼれを文化的に保護してくれるという魔除けの札にもなるという話だった。

「CHEMISTRYとケツメイシにハマってんな」
そう言った栗田にここでカウンターを打たないといけない。

「ああ、そういうやつな。俺はツェッペリンの2nd」

こう答えなくてはならないのだ。身を焼いてでも上回らないといけない。それだけをモチベーションに何時間も聴き続けた。苦戦や難解というレベルを超えて修行に近い領域だった。

MDウォークマンのイヤホンを変えたり、MDコンポのイコライザ設定を『Bass Booster』や『Vocal Booster』にしたりと「良くなる努力」を試行錯誤した。

音楽機器メーカーや製作者の意図だけで満足しているから『良く』ならないのだ。他人から享受しただけでは努力とは言えない。

『好きでもないこと』を『好きなこと』に昇華して威張り散らすのだ。そんなずうずうしい特権、与えられた宿題をこなした程度で手に入るわけがない」と茂野吾郎にならざるを得なかった。

筋群を徹底的に苛め抜くアスリートのように悪戦苦闘を重ねた何ヶ月目かのある夜、目の前にふさがった壁に、突然亀裂が生じたのを感じた。

「B'zのほうがええやん」という心の声を監禁しながら、聴いていたロバート・プラントのハイトーンに武者震いが起きた。気を抜いていたら見落としてしまいそうな剃那の震擦だった。

急いでMDを『Rubber Soul』に変えた。内心、禁忌の象徴であるCHEMISTRYの劣化版だと思っていたジョンとポールの声にくらっとした。焦燥感にかられたまま『NEVER MIND』に入れ替えた。
これまで聴き取れなかったベース音が聴こえ、「ちゃんと声を出せなくてヘタクソやな。体調悪そう。かわいそう」とじつは同情していたカート・コバーンの声が本能の皮膚を引っ掻いた。

それは言葉にしようとすると、消えてしまいそうな淡い熱狂だった。だけど確実にそこに存在する手触りだった。焦りにかられ、次々とMDを手に取った。

リアムもアンソニーもストラマーも昨日までとは違う輪郭で声を発していた。感動は目覚めにも似た段階を踏んで、より明晰なものへと変わっていった。一枚ごとに胸が波打ち、鳥肌が立ち、脳天が震えた。

夜明けの光が部屋に差し込んでくる頃、借りてきたばかりのWEEZERの青いアルバムをウォークマンに差し込んだ。
ー曲目の「Things were better then Once but never again」というフレーズのルビまで読めた気がした。

言語では訳せないくせに、心では訳せているような不思議な感覚だった。
すっかり栗田に誇示したいという気持ちなど失せ、素直に音楽に心を解放するようになった。

聴くだけでなく、作ってみたくなるのは自然な流れだったのかもしれない。カートのジャガーやストラマーのテレキャスターは手が届かなかったので、二方円弱の安いアコースティックギターを買った。ブロンズの弦を鳴らすと無敵になった気がした。

ナメクジの行進みたいだった時間の流れ方が一気に早くなった。春、夏、秋と矢のように中二の月日は過ぎていき、オリジナル曲が山盛りになっていた。

創作というものは自由だった。何を書いてもいいし、どこに進んでもいいし、すぐに終わってもいいし、いつまで続いていてもいい。

作るだけでなく、録って聴いてみたいと思うのも自然の流れだった。
『カセットMTR』と呼ばれるカセットテープのマルチトラックレコーダーを買った。一万円ほどで買える最安価の録音機材だった。

自分の歌を録ってみると、カートの数倍は体調の悪そうな声だった。しかし何度も録って聴くうちに、爪の垢ほどだがマシになってきた。「何かが上達する」という喜びを音楽を通して初めて知った。

テープのレコーダーはデジタルのレコーディングとは異なり、極めて原始的な録音機器で、足の親指で録音と再生ボタンを同時に押しながら、マイクに向かって歌う。そのため常に一発勝負だ。たとえば「Bメロから録り直す」なんてことは不可能だった。

完成したらMDコンポを使って、曲をMDに取り込む。録り溜めた「自分全曲集」を聴いていると、何か大きなものに包まれているみたいな心地よさに包まれた。楽曲の質や内容なんかよりも、自分で決めて、自分が進んでいるような全能感は味わったことのないものだった。


九月の終わり、星を眺めながら公園でウイスキーをラッパ飲みしていた。火照った顔に秋の夜空が心地よい、一年に何度かある四季を止めたくなる瞬間だった。

MDプレイヤーからはイヤホンを通して、ヘタクソな自分のギターと歌が聴こえてくる。今日作ったばかりの新曲だった。酔いが回ってきて、ベンチの背もたれに頭を載せる。酔いには駄曲だろうが何だろうが、名曲に聴こえてくるマジックがある。洗脳された猿のように何度もリピートしていた。

目をつむって浸っていると、肩を叩かれた。びくっとして耳からイヤホンを取った。警官か教師かそれともPTAかとにかく何かしらの大人か。
「川嶋くん?」
振り向くと白いTシャツの女の子が立っていた。肩までの髪に、切れ長の上品そうな目には覚えがあった。
「片岡さん……?」
同じクラスの片岡美咲だった。ほとんど学校に顔を出していなかった僕だが、片岡美咲とは数回言葉を交わしていた。

いくら登校拒否児でも、学期明けの登校日や学期末ぐらいには顔を出す。その日に行かないとさすがに大問題らしく、無理やり呼ばれていた。
美咲は一年生の時も同じクラスだった。授業のない日は席順が出席番号順になるため、この二年で何度か隣に座ったことがある。

「何してるの?こんな時間に」
美咲は首を傾げて、頭にクエスチョンマークを浮かべていた。
「えっと、別に……音楽、かな?聴いてただけやけど」
反射的に酒瓶が見えないよう、腰の後ろに隠した。
「音楽って何聴いてるの?」
美咲がベンチに腰掛けると、肩までのまっすぐな髪がしなやかに揺れた。
「いや、自分で作ったの」

酔っていたせいか、吸い込まれるような目のせいか、ごまかさずに本当のことを言ってしまった。
「え 凄い!聴かせて!」
「いや、まだそういう段階ではないというか、誰かしらに聴かせるために作ったとかではなくてやな……」
「聴きたい!」

美咲は速度のある声で、僕の言い訳を跳ね除けた。目を輝かせて、手の平をグッと差し出した。
足が強張ったが、美咲に吸い込まれるようにイヤホンを渡していた。

百を超える曲を書いてきたが、他人に聴かせるつもりなどなかった。でも、もし、聴かせたらどうなるのか。物の本の一章をめくるような興味と期待で、ウォークマンの再生ボタンを押した。

美咲は耳のイヤホンを手の平で押さえ、じっとしている。くるりと上を向いたまつ毛の目には、固睡を呑んでいるような真剣な色が現れていた。公園の明かりが白い横顔に反射していた。

「感想を待つ長さ」を初めて知った。無言で待っている間、夜の公園にシャカシャカと音漏れが響いた。水に潜って息を詰めているような、あまりに長く感じる三分間だった。

水面から浮上するように、美咲はイヤホンを外して顔を上げた。
「すごい……プロみたい……感動した」
美咲の目が濡れていた。
「感動って、大げさな……」
「本当だよ!感動したよ!凄いよ!」
感動を得るまで、苦渋に悶えながらロックを聴き続けた修行僧としては、すべての想定を上回る言葉だった。

美咲は両手を合わせて「そっか!川嶋くんが学校来ないの分かった!」と言った。
「え?理由とかないけども」
「ミュージシャンになるからでしょ!」
「ミュージシャン?NIRVANAとかOASISみたいな……?」
「なにそれ?グループ名?」
美咲は首を軽くかしげて、身じろぎもせず聞いてきた。
「え、まぁそうかな。グループ名……うん、たぶんそうやな」
「私、歌だったらBoAとかジュークとか好きだよ!愛内里菜とかあゆも!最近だとストロベリー・フラワーとか!川嶋くんは?」

「ツェッペリンの2nd……」

馬鹿みたいだった。

3.なれなくても大丈夫だよ!

いつの間にか僕と美咲は時折公園で話すようになった。
二人きりで話さないと人間の本質には気づけない。学校という籠の中では、人の心を丁寧に触ることができない。

「あ、こっちの人やないんや」
「うん。小学校までは、経堂ってとこにいたの、世田谷区の」
「狂って動き回るって書くん……?怖いな」
「違うよ!経るって字に、殿堂入りの堂だよ」
「せやな。『世田谷区・狂動駅』とかありえへんよな」
僕は半分本気だったのだが、美咲は冗談をくらったみたいに笑っていた。

美咲は「どんな育て方をしたんですか?」とご両親に聞きたいぐらい、素直で優しい性格だった。
ドブの底のような日々を送る僕にとっては、地獄に垂れてきたクモの糸そのものだった。どんな人間でも、大概一生に一度はその人間に相応した花々しい時期というものがある。人生捨てたものではない。

そして魔法のような話だが、明るいものに触れると、世の中全体すらも捨てたものでは
ないように見えてくる。

美咲との時間が欠片ほどでも僕に素直さをもたらしかたのか、学校へと少しずつ通えるようになった。通学が『健康で文化的な最低限度の生活』だとすると、公園での時間はバブル期を思わせる輝かしさだった。

美咲は年の割に大人びているところがあり、よくファッションや読んでいる本の話をしてくれた。

つまらないわけではなかったのだが、僕はいつもそれをぶった切って音楽の話をしていた。美咲はそれでもよく話を聞いてくれた。
「やっぱWEEZERやねん。俺もああいうのがしたいねん」
「そうなの? どのアルバム聴いたらいいかな?」
「やっぱ青か緑かなぁ」
上を向くと冬が近くなった空は黒々と磨き上げられていた。
「外国の人たちの歌も、TUTAYAに置いてるの?」
「洋楽もちゃんとあるで。あ、でも青やったらCD持ってるわ。良すぎたから買ってもた。貸すわ」
「え、嬉しい!ありがとう!」
上機嫌でポジティブな言葉ばかり使う美咲の声を聞いていると、心が整っていくようだった。

一週間後の公園で、「青、すごい好き!毎日聴いてる!」と美咲は大きな声を出した。自分でもすぐにはっとして口に両手をあてて、周りを見渡した。妙におかしくて、こっちまで笑ってしまった。

僕の音楽制作は一段とクオリティが増した。一人でも聴いてくれる誰かがいると、緊張感も意識も数倍になった。
美咲に貰った「プロみたい……感動した……」がこれ以上ないほど自らを駆り立てていた。

充実感で縫われた靴でこれまでの誤ちを踏み越えて行くような日々だった。取り憑かれたように歌を書いて、これぞというものだけを残した。

新曲ができるたび、公園に行った。美咲が必ず来るというわけではないのだが、一纏の望みをかけて待ち続けた。携帯電話も持っていなかった僕たちは「たまたま会う」しかできなかった。美咲が来ると、秋の夜空に新しいシャカシャカが響いた。
「凄い......前のとまた違う感じで、私、これ凄い好き!」
こちらを向いて、明るい表情をさらに輝かせてくれた。
「WEEZERに似すぎやない?」
心では歓喜に打ち震えていることを悟られないように口を開いた。「中二の自意識」はそうやす やすと前後不覚に喜ぶことを禁じている。

「どこか似てるかなぁ?川嶋くんの声だし、日本語だよ?」                   「コード進行とか、落ちサビの具合いとかかなぁ......展開も一緒やし」           
「うーん。分かんないよ!でもそれってもう、模倣じゃなくて、オリジナルってことじゃないかな」
「まぁ、そういうとこは分からへんよな。素人には」
いっぱしの口を利く僕に「分かんないよ!でも凄い好きだよ」という言葉が返ってきた。
ベンチの上に置いた拳を握ると、胸の奥底が熱く泡立った。知識のある馬鹿と無知な聡明さを持つ少女の会話は引きで見ると、ほとんどコントだった。

ある日は調子に乗ってギターを持っていった。美咲が聴きたいと言ってくれたので目の前で歌ってみせた。
住宅街の狭い夜空に全力の大声が跳ね返った。歌い終わった瞬間に「うるせーぞ!」と建売住宅の二階から怒鳴り声が飛んできた。

ケースにしまいもせず、むき出しのギターを持って、僕と美咲は公園から走って逃げた。恐怖は感じなかった。二人とも、むしろ笑いが込み上げて、まるでくだらないブラックジョークのようだった。
「初ライブが途中で中断って」
さすがに僕も笑うしかなかった。
「中断して、帰っちゃうなんてOASISって感じじゃん!」
「あれはふてくされて、勝手に帰ってるだけやん」
二人で大笑いして、すぐにはっとしたように口に両手をあてた。動作がまったく同じで笑いをこらえるのに苦労した。
「ていうか、OASIS聴いてんな」
「うん。借りたCDにね。白い冊子が付いてて、それ読むの楽しいんだよね。伝記みたいで」

美咲は両腕が抜けるぐらい伸びをしていた。
「でも、ほんとに生演奏のほうが良かったよ。ありがとう」
美咲の笑顔はあまりに華やかで、ふと泣きそうになった。歌って感謝されるのは、魂を素手で掴まれたようだった。
自動販売機で同じアイスコーヒーを買った。
「まぁ、でもこんな訳分からん歌作ってもな。プロになれるわけじゃないし」
「なれるよ。川嶋君、才能あるもん。だってBOAの曲より、私好きだよ!」
「BoAかぁ......BoAと比べられてもなぁ…...でも、なれへんかったら?」
美咲は一つの間もなく即答した。
「ロックのことは、あんまり分からないけど、芸術って全員を気持ちよくするものじゃないんじゃない?川嶋君はプロになれるし、なれなくても大丈夫だよ!」
美咲はたまに、そんな「センスのある言葉」を扱う女の子だった。

そのいくつもの言葉のおかげ で、これまでの鬱積や「中二の自意識」が成仏していくようだった。 それでも「あの場所」のことは黙っていた。魅力を分かってもらえるか不安だったし、あそこは 僕にとって、どこか恥ずかしいものになっていた。

それにあの時間、感じていたことはきっと幻想ではないけれど、 それを誰かにうまく説明できる自信はなかった。いや、それは言い訳だ。本当は違う。

もう悪意の有無にかかわらず、大切なものが汚される、あの、胸がキリでえぐられるような痛みを感じたくなかったのだ。

栗田の放った「そんなにいいか?」という悪意無き矢は、まだ僕の心臓に突き刺さったままだっ た。思い返すと古傷が疼くようにじくじく痛んだ。血が流れていないだけで、たしかに痛覚は悲鳴 をあげていた。 しかし夏が来て、僕は美咲をあの神社に連れて行くことになる。キッカケはなんでもないことだった。

4.常識ばっかり信じて、現実に移しちゃうのって、一番危険な気がするんだよね。

三年生の夏休みになった。僕と美咲は昼間も会うようになっていた。
「恋人」なんて言葉が使えるほどではないけど、休みにクラスメイトと会うだけで「特別」だった。
木々のトンネルと葉の天窓で覆われた並木道にはまばらに光が差し込んでいた。

スニーカーを引きずる僕に美咲が「ほら、また引きずってる!」と笑った。自分としても不格好なので直したいのだが、習性というものはなかなか直らない。
「自分やと気づかへんもんやな」
「靴すぐ擦り減っちゃうよー」
「踵ばっかし穴あくねん」
「足上げないと!」
「入場行進みたいやな」
この幸福の絶頂が続くことを祈っていた。このまま時間が止まればいいのに、と心から思っていた。

体の癖や習性は簡単にとれないように、物の見方も同様だった。僕はいつまで経ってもどこか根拠のない怯えを抱えていた。

その悪寒がまた自分に酒を飲ませてしまうのだ。これはいけないことだ。「未成年は」などという条例での禁止がいけないのではない。

本当に駄目なのは逃避としての自失だ。美咲の晴れやかな顔を見ているとあってはならないとは思うのだけど、どうしても切り捨てることができなかった。

横を見ると、美咲がいたずらっぽく下唇をくわえて笑っていた。
「ねぇねぇ、秘密にしてることを一つだけ教え合おう?」
美咲はたまに独特の喋り方をした。疑問文じゃないのに、語尾が持ち上がる神秘的な口調だった。
「魂に色気がある」とでも言えばいいのか、改めて本当にセンスのある娘だった。
その声に心が無防備になった。

「俺、学校あんま行ってなかったやん?」
「うん……あれ?あんまり?全然来てなくなかった?」
「ほら、あれやん。登校日とか学期末は行ってたし……」
「あれはノーカンだよ!」
「ギリギリカウントしてや」
「だめ!ノーカン!」
美咲は笑って首を振った。
「秘密かぁ………」
「栗田と幼馴染ってのは?」
「友達から聞いた気もするけど……でもそれ秘密かなぁ?」
「だってあいつ、長田どころか灘行くねんで」
「灘高!?」
美咲は分かりやすいほど驚いた。
「村上ファンドみたいになるんちゃう?ハーフとは言え、村上ファンドが日本一の金持ちやろ」
「川嶋くん……村上ファンドは名前じゃないよ?」
「え?ジョン万次郎とか滝川クリステルの法則じゃないん?」
「ちょっとだけ、違うかな……」
おはじきほどの大きさの声だった。
「中学入ってから、酒とタバコばっかやってたのは? まぁほとんど酒やけど。タバコ吸うと歌いにくくなるしな」
「あ、それは知らない!未成年なのにダメだよ!」
「でも酔ってないと、ちょっと無理やったかもしれんねん……」
美咲は腕を組んで、「うーん」と言った後に、「まぁ無理なら仕方ないか!あくまで、ルールと常識だしね!」とまた笑った。
「学校行くのもルール守るのも、常識やもんな……非常識人間にも居場所があるとええねんけど......」
今度は僕の声がおはじきになった。
「でもね?」
美咲がゆっくり口を開いた。

「私は常識ばっかり信じて、現実に移しちゃうのって、一番危険な気がするんだよね」
その通りだな、と心でつぶやいた。
「川嶋くんはちゃんと自分の頭で考えて、自分が信じてるもの信じてるじゃん!」
「ここから……」
喉が絡んだ。
「ここから、ちょっと遠いねんけど、山の上に神社があんねん、そこにやぐらがあってな?毎日そこにおったな。これはたぶん秘密かな……」
「え?それは知らない!秘密だよ。それ!」
「俺はそこめっちゃ好きやってんけど、ええと、友達連れて行ったらボロクソに言われたわ。あれはキツかったな」
栗田の名を出すのは無粋に思えた。
「そんなのはさ、受け手の力量だよ」
美咲はゆっくり微笑んで、「私も連れて行って」と言った。
「うん、まぁ行ってみよか……」と答えた。

5.いいとこね!

夏たけなわだった。
烈しい太陽光線に灼かれながら、美咲を荷台に載せて、自転車をこいだ。
後ろから「すごい天気だね!」と声がする。美咲のストレートの髪は肩の下まで伸びていた。
「山やぞ!大丈夫か?登るのホンマしんどいぞ!」
向かい風を切って、ペダルを踏みつける。
「大丈夫だよ!私バスケ部だもん!」
「一回戦でボロ負けして引退してるやん!」
「言わないでよ!勝ち負けはしょうがないじゃん!ねぇ、それより重くない?」
「全然重くない!もっと食ったほうがいい!」

しばらく自転車をこいで、山のふもとについた。あれだけ毎日来ていたのに、急に足が遠のいたせいで、もう何年も来ていないような気がした。
ただ何も変わっていない。
のんびりとした稜線が空にむき出して、山というには低く、丘というには大きい。
「ここで降りて、歩かなあかん」
美咲を支えて自転車から降ろした。
「これは凄いね……地元にこんなとこがあったんだね」
「途中でキツくなったら言うてな?」
「うん。ちゃんと言うよ」

自動車教習所のコースみたいにくねくねと曲った道が続き、その後、標高を一気に稼ぐ急勾配がやってくる。

七月下旬の猛署のせいで、山道は余計に険しく感じられた。 鳴きまくる蝉は命の限り、声を荒げている。
「蝉の声が近いね」
蝉時雨の轟音で美咲の声が聞こえなかった。
「蝉の声が!近いね!」
「な!こいつらはたぶん!一昨年のやつらの子孫!」
「蝉って!成虫になるまで地面に七年潜ってるんじゃなかったっけ?」
「そんなわけないやろ!」
「どっちにしても、ロマンチックだね!」
「どこまで行っても、蝉やけど!」

美咲は汗で髪が顔に張り付いているのを気にも留めないで、 ニコニコしながら歩いていた。時折、膝に手を置いて、「たしかにきついねー!」と歌うように笑った。
道が狭く、一人分の幅しかないため、隣を歩いてやることができない。

楽しそうにしている美咲を尻目に、僕は怯えていた。頂上が近付くにつれ、栗田の「そんなにいいか?」が何度もフラッシュバックした。胸が圧迫感に襲われる。

もしも美咲に「これ?そんなにいいかな……?」などと言われたら、どうすればいいのか。そう思うと生きた心地がしなかった。自分の大切な人に、自分の大切なものが否定されるかもしれない恐れで、気温以上に汗が噴き出た。

神経が肌に突き刺さってくるような緊張を美咲に悟られないよう歩みを進めるしかなかった。

「もうちょいで、着くからな」
「全然大丈夫だよ!」
「バスケ部はタフやねんな」
「一回戦で負けちゃったけどね」

愛矯のある微笑を浮かべた口元が「でも楽しみだな!神社とかやぐら早く見たいよ!」と言った。

美咲の期待感が高まるほど、肩口に兆した戦標がどこに駆け抜ければ良いか分からず、背中を走り、腕や足に散った。

登りきると空が抜けるような青さに澄み切っていた。ひと塊の風が柔らかく吹き上げてきて、体を爽快感が包む。

ほのかにゆらめく芝と、遠くで山道に茂っていた葉の音が何重奏にも重なって聞こえる。登坂の険しさと登頂時のコントラストも相変わらず完壁だった。

神社はあの日から、何一つ変わらずに小さいながらも悠然としていた。長く留守にしていた故郷に戻って来たみたいだった。
自分の感性も神社の仲まいも、あの頃と何も変わっていないことに胸を撫で下ろした。やっぱりここが好きなんだと肩の筋肉がすっと緩むのを感じていた。
「わー!着いた!!」
美咲の声が後ろから聴こえた。

「気持ちいい!川嶋くん、こんなとこひとりじめしてたなんてズルいよ!」
いつもより声に張りがある。こんな声の出せる娘だったのかと驚いた。
「あ、神社ってこれだよね?」
美咲は小さな鳥居を見た。
「小っさくてショボない?」
「ううん。今まで見た神社と違って、デリケートな感じがする」
「デリケートか……神社に向かって、デリケート……別にただ無人なだけやけど」
冷やかすわけではないが、必要以上に神経質な表現だと思った。
「でも、きっとここには神様がいて、辛い時の川嶋くんを守ってくれていたんでしょ?」
冗談にされてはたまらない、と言ったような真剣な声だった。
「まぁ、せやな……」
気圧されたように同意した。

美咲は小さな体で、王様みたいに堂々と胸をはって神社に近づいていった。賓銭箱の前まで来ると、小さな財布に手をいれて、千円札を取り出した。
「おい、片岡」
「何?」
「いくらなんでも、それはあれやろ……高すぎるやろ」
「高くないよ」
夏目激石の顔が美咲の両手の中、風に吹かれている。
「費銭箱に千円も入れるアホおらんやろ、どう考えても、めちゃくちゃやろ……」

しどろもどろに脈絡のない言葉を並べる僕を尻目に、美咲は千円札を賓銭箱に入れ、両手を合わせて目を閉じた。
「マジか……」
口が半開きになり、固まってしまった。
「史上最高額だよ!」

美咲はこっちをくるりと振り返り、両手を広げた。きめ細かな長くなった髪が風に吹かれていた。
「何でなん……?家、金持ちやったっけ?」
「だって、ここは大事な場所なんでしょ?お小遣い半月分! ありがとうございます、って気持ちだけでも届けたくて!」

輝いているように見えた。陽光もあるが、美咲自身から光が発散されているとしか思えなかった。
「やぐら、登ってみる?」
「もちろん!登らないと!」
吸い込まれそうな声だった。

手をつないで、やぐらに登った。あの頃と変わらない箱庭みたいな町が眼下に見える。雲一つない空がパノラマで広がる。額に収めて飾りたくなる風景は相変わらずだった。山道の疲労が一気に吹き飛んでいく。
「凄い!綺麗!ちゃんと地球の丸さが分かる!」

美咲は小さな町を、まるでグランドキャニオンであるかのように、何の混じりけもない明るい顔で眺めていた。

嬉しかった。でも嬉しいはずなのに、感情をうまく表に出せなかった。

これまで味わった苦味、寂しさ、そして例えようのない嬉しさを全部、口に含んだような気持ちだった。
「ねえねぇ!あれ学校かな?ねぇ、あれは?」
ロの中の入り混じった気持ちを飲み干すと、美咲の声が遠く感じた。

空も神社も町もやぐらも、すべてが独りだったあの頃と同じだった。それなのに何故だろう。誰かと手をつないでいるだけで、世界の感じ方や見え方はまるで違う。

青空が目にしみるほど濃く、風は体の中を通過してるみたいに涼しい。美咲と一緒に見ると、僕を苦しめてきた小さな町も、恥部となっていたこの山頂も、敗しすぎるぐらい美しかった。

この神社とやぐらは誰とも喋りたくなくて、つながりたくなくて、辿り着いた後ろ暗い場所だった。そんな防空壕が世界で一番尊いものに化けた。
頭の中でキーンと音がする。
「いいとこね!」
つないだ手の先から、風鈴のような声が聴こえた。何故かは分からなかった。分からないけど、
手をつないだまま、つないでもらったまま、耐えきれず泣いていた。

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