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少年の自分に情報革命を

ここnoteにはお題企画というもよおし事がある。「◯◯について書く」という大喜利的なものだ。
この中に『もしも叶うなら』というピックアップお題があった。

願いを叶えられる呪文があるならば、ほとんどのひとが未来や現在を変えるために使うだろう。今足りない何かをもたらすため、その力を使うはずだ。

僕も同様に考えを巡らせてみたのだが、思いつかなかった。意外にも欲求がない。しかし面白いことに『過去の自分』に焦点を当ててみると、ザクザク叶えたいことが出てくる。

今の自分は過去の延長線上に立っている。つまり過去が変われば、現状の自分も変わるのだ。

ここnoteをずっと書いている習慣があったので、今年の夏に書籍が発売された。もちろんnoteを書いていなかったらありえない。

驚くことに来年には劇場で公開される。これも当然noteが存在しなければ起こり得なかった。

さらにKEYTALKやcinema staffという友人たちが本人役で出演までしてくれた。
これらは僕がずっと音楽を続けてこなかったらありえなかったことだし、十四歳の頃に引きこもり、延々と自室で曲を書いてた過去がなければ訪れなかった未来だ。

この話は「あったから良かったね」というものだが、「過去にコレがあれば良かったのに」と思うものもある。

『ネットとスマホ』だ。

小学校入学のタイミングで阪神・淡路大震災を食らい、中学入学時にはイチローさんが大リーグに挑戦し、高校入学時には『千と千尋の神隠し』が公開された。僕はそんな世代だ。

パソコンはあったし、インターネットというものがゼロだったわけではない。だけどまだインフラとしては整っていなかった。やはりどこか「オタクの使う特殊なもの」という雰囲気もまだまだ拭えていなかった。

小学生の頃に自宅にパソコンが来たが、国内にはまだ「ダイヤルアップ回線」と呼ばれる電線を使ったインターネットしか普及していなかった。今の子どもたちはピンと来ないかもしれないが、ダイヤルアップ、通称「ダップ」は家の電話とネットを同時に使えないのだ。しかも使えば使うほどお金もかかる。令和から見るとカオスすぎる状態だ。

もちろん動画を楽しむなんていうのは夢のまた夢だったし、「パソコンで何か楽しいことができた」といった記憶もない。

しかしもしもあの1995年あたりに『スマホ&ネット』が現在級に普及していたらどうだろう。それが叶うならば、僕は全く違う大人になっていたはずだ。ITのアイテムで育った未来と、そうじゃない未来はまったく違うものになるだろう。

僕は学校があまり好きじゃない子どもだった。これは存外悲劇だ。なぜなら子どもの人生において、そのほとんどを学校で過ごすからだ。物理的にも心理的にも、学校生活が占める割合は非常に多い。

当時、先生たちは生徒を集会で晒し者にしたり、理不尽に殴りまくったりしていた。今やると大問題になるだろう。

回想すると人道的にも法律的にもヤバイのだが、当時はあれがおかしいと思えなかった。それが普通だったのだ。だけど僕はその「普通」が怖くて仕方なかった。そして「普通」を怖がる自分は異常だと感じていた。

今や誰しもが分かるがそれらは「普通」ではない。自分より力の劣る子どもをコントロールするために恥をかかせたり、暴力に頼るのは「異常」なのだ。僕が感じていた恐怖はまったく異常ではなく、普通だった。

その観点に絞り、「あの頃、スマホとネットがあったらどうだっただろう」と思うと少々切なくなる。

「俺は異常なのだ」と感じてきた少年期が変わることになる。やはりあの考え方は人格形成に大きな影響を与えたはずだ。良いか悪いかは分からないが、今とはまったく違う性格や価値観になっていたと思う。

「現代人が一日に受け取る情報量は、江戸時代の一年分」という話がある。情報革命の凄まじさを語る際、よく使われるいにしえの生活との比較だ。

とても分かりやすい話だが、そこまで昔にしなくてもいいのではないだろうか。

「2010年代生まれの小学生が一日に受け取る情報量は、昭和生まれの小学生の一年分」と言われても、僕は余裕で納得できる。

古今東西、情報は身を守るアイテムにもなる。
生きていると、流れなくてもいい涙がある。
もしかしたら、情報により守られたはずの命だってあるかもしれない。

今日も道ばたで小学生が齧られたリンゴのマークの電話を触っていた。一生懸命に窓を撫でている。
もしも叶うならあの世界線に一度でいいから生きてみたい。





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