初ライブは地元スーパーだった

Qこんにちは。
相変わらず遅刻したり欠勤したりで、ついに今の契約期間をもって更新しませんと会社から言われてしまいました。今は調子がよければ朝普通に出勤して8時間働くことができますが、調子が悪いと布団から起き上がれず歯磨きや風呂に入ったりなどもろくにできない状態なのですが、もう今の仕事も辞めてしまって在宅でできる仕事を探そうかと考えています。たくろうさんはこのことについてどう思われるかお聞かせいただけますか?
2021.4.30 Mさん(Mさん・25歳女性)

A. AかBか、上から下か、右か左か。生きていると二択ばかりです。人間というものは選択の果て、選び取った末路な気さえしてきました。

「じゃあゆっくり悩み、考えなくてはならないのか?」と言われたらNoですよね。だって僕たちはそもそも大した存在じゃないんですもん。

見上げてください。夜空に目をやると頭上には宇宙が広がっています。星だって星の数ほど瞬いています。

残念ながらこちらは渋谷です。

ビカビカ絶叫するネオンと、何が楽しいのか本当に叫んでいる若者たちの金髪も相まって、星はまったく見えません。この広がる空の先、満天の星が広がっているなんて嘘みたいです。
それでも脳内でイメージしていけば、何百光年的な世界観に吸い込まれていく自分がいます。次第に卑下でも謙遜でもなく、自らの存在などちっぽけなんだと気付きます。

僕たちはそんなチリ同然、鼻くそ以下、ミジンコ未満の物体なのです。
そんなやつらの「人生の決断」なんて小事だと思いませんか。爆発物処理班の「赤を切るのか?青を切るのか?」とかなら分かりますけど、お仕事など、軽く勇気の量を試されるぐらいの遊びだと気楽に考えましょうよ。

と、偉そうにほざきましたが、僕も悩み苦しみました。14歳の夏、訪れた初ライブです。

僕にとっての音楽は、いわゆる誰かに想いを伝えるための導線ではありませんでした。ただ、精神を落ち着かせる、自分を満足させる、それだけの装置でしかなかったのです。

だけど歌いたくなっちゃったのです。

当時はライブハウスなんか遥か雲の上だったし、YouTubeやツイキャス、TikTokもありませんでした。
「歌う場所はない。でも歌いたい」
あの飢餓感は忘れられません。戦時中の空腹の記憶をいちいち話してくる老人の気持ちが少し分かりました。

「どこかで歌いたい」は日に日に肥大しました。
「自室で書いた妙ちくりんな歌をもし誰かに聴かせたらどうなるのか」という欲求はもう止まりませんでした。

こうなるともう「演るか演らないか」です。選択の時です。そして僕は前者を選びました。場所は無いので、強制的にストリートライブです。

問題はエリアでした。
路上でギターを弾いて歌うと決めたはいいですが、梅田や三ノ宮まで行くのは危険です。人間が多すぎます。そんな大勢が歩く場所で演奏して、誰一人足を止めなかったら傷付くじゃないですか。女の人に笑われでもしたら、その場でギターを叩き壊して、半泣きで引退するでしょう。

悩み苦しんだ僕が選んだステージは、地元のスーパーでした。チェーン展開なんて到底されていないであろう小さな店です。なぜか床屋が隣接されていて、赤白青の棒がマヌケにくるくると回旋し、店内では中学生と父親が二人揃って後頭部をカリアゲにされています。

くるくるの横であぐらをかき、弦に向かってピックを振り下ろしました。ジャリンと丸裸のGコードが響き渡りました、のどかな青空に。

センス抜群の快活な三和音BGMが、自動ドアが開くたび、途切れ途切れに襲ってきます。そこに僕のヘタクソな歌がメインボーカルとして乗っかり、どこを切り取っても超恥ずかしい前衛的な空間が誕生しました。

オーディエンスはビニール袋にネギをブッ刺したオバハンしかいません。誰一人立ち止まりはしませんが、得体の知れないものにでも出会ったように凝視していきます。

振り返っただけで免疫力が激減しそうな思い出です。でも間違いなく僕にとっての初ライブです。あの時の選択が今日を構成していることも揺るぎありません。

選んだ道が正解だったなんて分かりません。ただ間違いなく言えるのは、時が経つにつれ、選択は忘却の空に消えていくということです。西に飛ぼうが東に飛ぼうが大差ありません。


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