感謝
人は最後、死期を悟った時に何を想うのだろうか。
僕は全く知らなかったが、祖父は8月頃くらいから体調がだいぶ芳しくなかったらしく、ここ何週間は入院していたそうだ。
入院中、家や叔母さんに電話をかけていたらしい。何度も何度も。その話を初めて聞いた時、僕には少し不思議に思えた。祖父は、いつも物静かで一日中ずっとテレビを見ていて、口数も少なかった。
試しに口を開いたとしても、いつもお酒を飲んでいて酔っていたのと、声もしゃがれていて何を言っているか理解するのに苦労した。だから、何を話したいことがあったのだろうと、きっと寂しさなど感じない人なのではないかと逡巡した。お通夜、父は少し迷惑を感じていたようなトーンで、この電話の話をしていた。
葬儀の日、父が最後に参列者に挨拶をした。時折涙と嗚咽を滲ませて。こんな父は見たことがなかったから、少し驚いた。
「父は、私たちが幼い頃から、物静かで、寡黙で、でも、家族のことを想ってくれて、だけれど、表現の仕方を知らない、不器用な人でした」
祖父はいつも、父含め兄妹がいつ帰ってくるのかそわそわして待っていたらしい。「いつ帰ってくるんだ」「今どこにいるんだ」そんなことを何度も繰り返しながら、娘息子の帰りを待ち望んでいたらしい。
「孫とお酒が飲めるようになったんだよって、嬉しそうにしてたよ」と、祖母が僕に言ってくれた時のことを思い出した。いつも冷蔵庫にはエビスビールが冷えていて、100円ちょっとの発泡酒で満足していた貧乏学生の僕には、なんだかちょっと背伸びをしたように思えた。
祖父は嬉しそうにビールを注いでくれていた。いつもぼーっとして表情の変化がなかったけれど、この時は嬉しそうに顔を綻ばせていたような気がする。
きっと、寂しかったのだろう。口下手で、4人兄妹が大勢集まった時も、テレビを見てはたまに会話に入り、入ったと思ったらすぐにテレビに目線を戻す。あの時、見ていたテレビの内容は祖父の頭に入っていたのだろうか。
人は最後、死期を悟った時に何を想うのだろうか。成し遂げたことではなく、成し遂げられなかったことを想うのではないだろうか。正直になれなかった、素直になれなかった、できなかったことを思い出し、最後、ほんの僅かでもその後悔を拭うために、祖父は電話のボタンを押していたのかもしれない。
僕は、後悔のないように自分の人生を生きられるだろうか。伝えたいことを伝えられていない人はいないだろうか。ありがとうも、ごめんなさいも、少し照れてしまって飲み込んだ言葉や、後ろめたくて言えなかったことはないだろうか。それは、きっと今際の際で潮が満ちるように脳裏をよぎって、取り返せない時間に後悔の念を乗せるのではないだろうか。
父が挨拶の言葉を読んでいる最中、僕が想ったのは祖父ではなく、父のことだった。
物静かで、寡黙で、でも、家族のことを想ってくれて、だけれど、表現の仕方を知らない、不器用な人。
僕は、いつもそばにいてくれなかったけれど、スマホの待受はいつも僕と妹の写真な父を想った。同じことを、父の葬式で僕は言ってしまうかもしれないとも。そして、きっと父が僕たちのことを愛してくれていたように、祖父も父たちのことを愛していたであろうことも。
僕たちはみんな不器用で、ただ大切なものを大切にしたいだけなのに、どこかでがんじがらめになって、もつれて転んでしまうらしい。大切な人を想う言葉は恥ずかしさに押し込まれては消え、すれ違い、それが生んだ距離は気づけば取り返しのつかないものになっている。
祖父は、面倒を見にきてくれた叔父にありがとう、ありがとうと伝えていたらしい。最期、遺言を撮ったビデオに残っていたのは家族、お世話になった人への感謝の言葉だった。
人は最期、死期を悟った時に何を想うのだろうか。僕にはまだ、わからない。いくら伝えたって、伝えきれなかったと後悔するのかもしれない。言葉で伝わるものなんて、所詮雫の寄せ集めのようなもので、ほとんどは網目を通り抜けて落ちていく。
だけれど、ありがとうだけは頑張って伝えたいと思う。それはきっと、祖父が最期に僕に遺してくれたものだと思うから、僕はそれを大事に、大事に後へ渡していく。
祖父が大好きだった日本酒の小瓶を2本買った。一本は祖父の遺影の前に、一本は僕のリュックの中に。
「孫とお酒が飲めるって嬉しそうにしていたよ。」じいじ、最期にお酒、一杯だけでも飲めたらよかったなぁ。あと、もう少し嬉しそうな言葉、かけてくれたら俺も嬉しかったのになぁ。
最期にじいじが教えてくれたこと、死ぬまで一生大事にするからね。今日は久しぶりに日本酒を飲むよ。向こうでもたくさん飲んでください。
最期まで、お疲れ様でした。乾杯。
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