インドカレーの魔力(小説)
インドカレーは、全てを解決してくれる。
大学3年生、就活の足音がすぐそこまで迫ってきていることへの焦り。人見知りのくせに接客のバイトを始めた自分への嫌悪。
やる気のない学生とのグループワークで感じる胸やけ。「知り合い」くらいの関係の人とご飯を食べる時に起こる沈黙。親知らずを抜いた歯茎の痛み……
バイトや授業でモヤモヤしても、カレーを食べると晴れやかな気分で帰れる。一人でも、誰かと一緒でも、カレー屋で気分が盛り下がることはない。
こないだできた口内炎も、カレーを食べた後痛みがひいた、気がする。
インドカレーには、そういう「魔力」があるのだ。
わたしの行きつけのインドカレー屋は、大学から5分ほど歩いたところにある「キッチン・ハルディー」。今日は3限のコマが空いているので、少し遅めに行くことにした。
7月の半ば、大学構内は容赦ない日差しが降り注ぎ、アスファルトの照り返しが顔を焼く。
たまらず木陰に避難すれば、頭が割れるほど大音量の蝉の声。この時間はやたらと人通りが多いことも、外に出る不快さに拍車をかける。
正門を出た先にある道路を横断し、通りを5分ほど歩く。雑居ビルの1階にある狭い店で、シンプルな黄色い看板が店先に出ている。
わたしは滝のように流れる汗をタオルで拭き、店の引き戸を開ける。
寒い。冷房が効きすぎている。
外との気温差で縮んだ胃腸に、むせかえるようなスパイスの匂いが流れ込んでくる。
カウンター席につくと、ネパール人の店員さんが水を運んできてくれた。片言での接客と、キッチンの奥から聞こえる異国語の会話。
インドのポップスだろうか、賑やかな音楽がBGMとして流れている。壁には象が描かれたタペストリー、テーブルには色鮮やかな布がかかったフォーク入れが置いてある。
わたしはカレー1種類にナン、ドリンクなどがついた、一番シンプルなランチセットを注文した。
すぐにマンゴーラッシーが運ばれてきた。一口飲むと、やさしい黄色に似合わない暴力的な甘さと冷たさが広がる。
確か、文芸部の同期3人で昼ごはんを食べた時、同期の一人が「ラッシーは胃の粘膜を保護してくれるから食前に飲むといい」と言っていた。
2年前、1年の夏休みの話だけど、いまだに彼を信じて、食べる前にちょっと飲むことにしている。
彼、最近部会に来ないけど元気かな。
前まで3人だけで遊ぶほどの仲だったのに、わたし以外のもう1人の同期、彼女と付き合うようになってからは変わってしまった。
5月ごろ、彼らは2年生に部長と会計の仕事を任せて、2人とも部活に来なくなってしまった。
3年生は彼らと私しかいないから、まだ残っている仕事は私1人でやる羽目になったんだけどな……
ラッシーがなぜか苦く感じられた頃、カレーがやってきた。
銀のトレイの上に、銀の器に盛られたオレンジ色のチキンカレー。表面に黄金色のバターが光り、わたしの顔ほど大きなナン。付け合わせの真っ赤なチキン、サラダ。
南インド風のトッピングで注文したカレーの上にはココナッツと生クリームが載っていて、橙から黄色、クリーム色のグラデーションが鮮やかだ。
おしぼりで手を入念に拭き、ナンにそっと手をのばす。熱い。出来立てのナンをずっと持っていたら火傷しそうだ。
むちっ。何とか端っこをちぎり、カレーに浸して口に運ぶ。
バターの香りと生クリームのコクが口に広がり、それから、クローブやターメリックといったスパイスの強烈な香りに、唐辛子と胡椒の刺激。
スプーンでチキンとココナッツもすくって口に入れる。肉の旨味とココナッツの風味がひりひりした辛味を和らげる。シャキシャキした食感も楽しい。
最高だ。
食べる前に考えていたこと、全部忘れた。美味い、そして辛い。
夢中でナンをちぎってはカレーにつける。たまにサラダを食べ、付け合わせの赤いチキンをかじる。ラッシーもよく合う。
店に入って一旦収まった汗が、再び顔から噴き出てくるが、不快さは全くない。トレイから顔を上げ、手をうちわのように仰ぐ。
店内にはわたし以外にもう一組、大学生とおぼしき男性客が二人いるだけだった。その二人も、カウンター席で黙々とカレーを食べていた。
インドカレーを食べるのに言葉はいらない。
……食事の間何か気の利いたことを話さなくても、一緒に食べるだけで間が持つものって、カニとインドカレーぐらいじゃない?
口の中の辛さが落ち着いたところで、再びトレイに手を伸ばす。
カレーを半分ほど残し、あっという間に1枚目のナンが消えた。と同時に2枚目のナン(おかわりで頼んでおいた)が運ばれてきた。
この辺りになると食べるペースは落ちるが、ここで食べるのを止めると食べきれなくなる。
出来立てで熱いナンを思い切って大きめにちぎり、ひたすら手と口を動かす。
熱い、美味い、辛い、暑い、美味い、辛い、熱い……
約10分後、わたしは最後の一口を迎えていた。欠片ほどになったナンで器にこびりついたカレーを掬い取り、ラッシーで流し込む。
わたしはお冷を少し飲み、しばらく座ったままで胃を休ませる。腹がはち切れそうだけど、幸せ。ごちそうさまでした。
会計を済ませ、店の引き戸を開けると、再び熱気と蝉の鳴き声が飛び込んできた。
店の外を数歩歩くと、カレーを食べているときにはかかなかった嫌な汗がにじみ出るのを感じる。
そういえば、次の授業はグループワークのある授業だ。その後は文芸部の部会もある。
インドカレーの魔力が切れないうちに、今日が無事に終わることを祈ろう。
(おわり)
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いつもテイクアウトしてるインドカレー屋、店だと数種類カレー食べ放題らしいので行ってみたい(とらつぐみ・鵺)
*カバー画像作成に「けしはん道場」アプリを使いました