あしゆびの黒い「シラサギ」(小説)
ここ数年、6月の初め頃、梅雨が始まるか始まらないかの時期の気候が一番鬱陶しい。
湿度が高く、蒸し暑いかと思えば、大雨。たまの晴れ間は猛暑日。どちらにしても不快な気候だ。
私が勤める天河市役所では6月上旬から既にエアコンが稼働しているが、それは来庁者のためのもので、定時を過ぎれば止まってしまう。
残業中の執務室は、窓を開けたり扇風機を回したりでなんとか凌いでいるが、蒸し風呂同然だ。
私はワイシャツの袖を肘の下まで捲り上げる。クールビズ推進の流れのおかげでネクタイは締めなくてすんでいるが、それだけでどうにかなるものでもない。暑い。
こういう場合残業をせずにさっさと帰ればいいのだが、そういう訳にも行かない。今の部署、環境部環境課は、普段の業務に加えて諸々のイベントの準備や何やらでこの時期が最も忙しい。
特に今手間がかかるのは、今年9月から始まる「自然環境月間」の準備だ。子供たちに市の自然環境の多様さを学んでもらうための月間ということで、私が主担当、後輩の露村が副担当になっている。
...…なってはいるが、私は今年度異動してきたので、昨年度からの経緯を知っている露村に教えてもらいながら、というのが実情だ。
なにせ、やることが多い。多い割に「これとこれやり残してるけどあとはよろしく。残りは露村さんに聞いて」というようなざっくりした引き継ぎしか受けていない。
幸いなことに、その露村が大学の後輩で、気安く何でも聞ける仲だったのが助かった。彼女は、私の隣の席で深刻そうな顔をして机の上に置いてある書類を見つめていた。
「どう、自然環境月間のマスコット作りは。この前デザイナーと長いこと打ち合わせしてたけど、大丈夫そうか?」
私が声をかけると、彼女は顔を上げた。髪を結んでいるヘアゴムについた鳥の飾りがゆれる。
「黒川さん...…シラサギの足指って、黒くないとダメですかね?」
「へ?」
私は思わず間抜けな声が出た。
「あ、すいません。考え込んでしまっていて」
「どうした、あんなに『鳥のキャラクターを監修できるなんて!』って張り切ってたのに。業者と揉めてるのか?」
露村は大学の頃から、バードウォッチング好きで有名だった。実家でインコも飼っているらしい。要するに無類の鳥好きだ。
「マスコットキャラクターは市の鳥『シラサギ』がモデル」と引き継ぎで聞いてはいるが、別に鳥だから彼女が担当することになったわけではないだろう。
「さっき言ってた足指が黒いかどうかって...…キャラクターのデザインで悩んでるのか?」
「ええ、まあ。自然環境月間にふさわしいデザインをと思っているんですが、デザイナーさんが出してきた案が、ちょっと」
「ふうん...…シラサギは、市の鳥になってるくらいだし、実在する鳥なんだろ? そんな悩む要素がどこにあるんだ?」
「いえ...…実際のところ、そこが問題なんですよ。『シラサギ』という名の鳥は存在しないので」
「え?」
「ああ、そうか……ええと、順番に説明しますね」
彼女は椅子を回転させて身体をこちらに向けると、机の引き出しからクリアファイルを取り出した。
「こちら、昨年度マスコットキャラクターのモデルを決める際に作成しました資料です。どうぞ」
「お、おう」
渡されたのは一番上に「天河市自然環境月間のキャラクターのモデルについて」と書かれた(役所の書類にしては珍しい)A4カラーの資料。
「資料の『(1)市の鳥シラサギについて』をご覧ください……日本で見られる白いサギは複数種類いますが、その中に『シラサギ』という種名の鳥はいません」
「そうなのか」
「天河市で普通に見られる可能性がある白いサギの中で、一般的に流布している『シラサギ』のイメージに最も近いのは、この、コサギです。その根拠としては……」
資料には「シラサギ」をモデルにした既存の市の広報キャラクター「しらぴょん」のイラストも載せられていた。白くてふわふわの羽、黒い足が可愛らしく、最近ではホームページにも登場している。
「しらぴょんにもあるこの頭の、触角みたいに飛び出している羽、わかりますか? 冠羽というんですが、これは図1のとおり、繁殖期のコサギの特徴なんです」
「確かに、サギっていうとこの触角があるイメージあるな」
「ただ、問題があるんですよ……しらぴょんもそうですが、『シラサギ』の足は黒く描かれるんですけど、実際のコサギの足は黄色いんですよ。図2の方がわかりやすいですが」
彼女が指差した写真を見ると、確かに、足の指先だけが黄色っぽい。靴下でも履いているみたいだ。
「本当だな……」
「しらぴょんは市民の方にも親しまれていて、『自然に興味や親しみを持ってもらう』キャラクターとしては充分なんですが、『子供たちに自然について学んでもらう案内人』となると、正確性に問題があります」
「なので今回のキャラクターは、名前も『コサギさん』とか種名に沿ったものにして……」
鳥として「嘘」がないデザインにしたいんです、と熱っぽく言うと、露村は拳を握りしめた。
「それでデザイナーに、足が黄色いバージョンも描いてくれと依頼したんだな」
「はい。デザイナーさんも戸惑っていたので、申し訳ないなと思いましたが……最初から複数案出してくれという契約なので、ということでなんとか納得してもらいましたが」
「...…たぶんそれ、足を黄色くしてくれってオーダーに戸惑ったんだと思うぞ。このデザインで行きます、って言われたら若干『ん?』ってなるんじゃないか」
「え、そうですか? 実際の姿に沿った、いいデザインじゃないですか!」
「しらぴょんの例もあるが、キャラクターとしては正確さよりもわかりやすさの方が大事なんじゃないか? キャラクターにデフォルメが入るのはよくあることだろう」
「子供たちが『コサギって足が黄色いんだ』って思ってしまいませんか?」
「それはそうかもしれないが……足の指だけが黄色いっていう絵はあまり見かけないぞ。それに……」
私は足先まで黒い「コサギさん(仮)」と、黄色い案のイラストを借りて、コピー機で白黒印刷をかける。
「ああ、やっぱり、白黒印刷にすると違和感が目立つな」
「……はい」
「知らない人から見れば塗り忘れに見えるかもしれない。ホームページとかに載せるならカラフルな方がいいだろうが……この月間の広報は子供や先生が対象、つまり学校への印刷物の配布が多くなるから、白黒印刷がメインになってしまうな」
「そう、ですね……」
「分かりやすさ、というのは別に妥協とか嘘じゃない。ユニバーサルデザインとか、最近は分かりやすさを追求することも重要だと言われてるし」
足指にまでこだわって作ったのはいいと思うけどな、とさりげなく彼女をフォローしながら、私は言った。
「……わかりました。不自然だ、と思われれば、課内での決裁も降りないでしょうし」
露村は、少し不満げな顔ではあったが、頷いた。
「ただ、この案はこの案で没案として残しておいてもいいでしょうか? 実は昨日、部長にこの足が黄色い案をちらっとお見せしていて」
「え?」
「そもそも昨年度、このキャラクターをコサギ、もといシラサギにすると決めたのも、部長のプッシュがあっての話なんですよ。部長、鳥がお好きですから」
行岡部長は環境部初の女性部長で、一度レクに入っただけの印象だが、とにかく穏やかで、よっぽどのことがない限り「任せます」と部下の背中を押してくれる人だ。
その部長が「シラサギがいい」と言ったということは、並々ならぬ思い入れがあるということか……
扇風機によって掻き回された、梅雨時の湿気をまとった空気が頬を撫でる。私はワイシャツの袖をさらに捲り上げた。
🦆 🦆 🦆
露村と私の不安をよそに、課内の決裁は足指が黒い案で順調に係長、課長まで承認を得られた。
足指だけが黄色いというのは違和感がある、「しらぴょん」の前例もあるし足が黒くていいんじゃないか、という意見がやはり圧倒的多数だった。
問題はここからだ。
「部長は自然環境月間のことかなり気にしておられるから、レクをした方がいいだろうね」
「……はい」
課長に言われ、露村は少し不安げな表情で頷いた。私も同じ気持ちだ。
天河市役所では、重要な案件や報道される可能性のある内容については、副部長の許可を得たあと部のトップである部長にレクをしなければならない。
自然環境月間は、もちろん報道される可能性がある案件ではあるが、このところ明るいニュースのない環境部でいつの間にか注目の的になっていて、その意味でもレクは不可避だった。
レクの当日、私は、課長と係長、露村と共に部長室へと向かった。
「えー、今回は9月の自然環境月間についてのご報告でして……」
係長から自然環境月間のイベントや広報のスケジュール、報道対応などについて報告した後、イメージキャラクターの「コサギさん」についての話題になった。
部長は真剣な表情で報告を聞き、足指の黒いキャラクター原案をじっと見つめていた。
説明が終わってすぐ、部長が口火を切る。
「シラサギをモチーフにという話でしたけど、名前は『コサギさん』にするんですね……同じシラサギのキャラクターにしらぴょんがいるから、差別化のためですか?」
係長が露村を見る。彼女はピクリと肩を震わせる。
「は、はい。名前だけではなく、デザインもよりリアルに寄せたものとしました。子供たちが自然を観察し、より深く学んでもらうため、自然の姿に近いデザインとしました」
「昨年度から、彼女が主担当となって、デザインの発注から何まで動いてくれていたんですよ」
課長がフォローすると、部長はうんうんと頷いた。
「なるほど。よく分かりました。コンセプトが伝わるいいデザインだと思いました。ただ……」
行岡部長の指がすっと「コサギさん」の足元にのび、空気がピシリと張り詰める。
「コサギの足の指は、確か黄色だったと思うんだけど、そこは前例通りというか……黒色でよかったんですか?」
やはり聞かれた。
「あ……はい。当初の案では、足指が黄色い案もあったのですが、デザインのわかりやすさの観点から、黒一色のものを採用しています。こちら、足指が黄色い案です」
露村が没案のイラストを見せると、部長は頷きながら小声でこう言っていた。
「そうね、自然のままの姿というコンセプトなら、足指が黄色い方がいい、か……」
その言葉に、係長は課長と顔を見合わせた。露村は私の顔を見た。やっとの思いでこぎつけたものがひっくり返る、と言うのはこの役所ではよくあることだ。私は半ば腹を括り、沈黙を破る。
「あ、あの……」
「ちなみにこの没案だけど、足指がピンク色のものもあるんですか?」
え、ピンク?
「婚姻色のことでしょうか? 実はデザインの発注をかける前段階の案ではピンク色もありました。自然環境月間が終わった後も利用する場合、春の時期の広報に使えるのではと思って……」
「ただ、足指が黄色い案がそもそも難航しそうでしたので同じく不採用にいたしましたが」
「さすが、やはりそこまで考えていたんですね」
露村は戸惑いながらもよどみなく答えた。私は小声で彼女にたずねる。
「足がピンク色の案ってなんだ? コサギの足は黄色いんじゃなかったのか?」
「黄色いんですけど……婚姻色といって、繁殖期の一時期だけ、嘴の根元と足指がピンク色に染まることがありまして。余計ややこしくなるのであえて言いませんでしたが」
「難しいですよね、自然のものをキャラクターに、というのは。大なり小なり、複雑さを捨ててわかりやすくしなければならないことがありますし」
私たちのやりとりを聞いていた部長はそう言うと微笑んだ。
「先ほど『足指は黄色の方がいい』というのは、実はわたし、『しらぴょん』の製作に関わっていたんですけど、その時のことを思い出していました。ややこしくしたならすみません……当時も同じ議論があって、結局足指は黒にしたんです」
「そ、そうだったんですね」
「ああ、もちろん、しらぴょんとは作った当時の状況も違うし、単純に比べられないとは思います」
「『前例がそうなのでそのまま』ならちょっと待って、と言おうと思ったんですが、課内でよく検討された結果のようですので、何も申し上げることはありません。何か言われたとしても、胸を張って理由を言えばいいんですから」
よろしくお願いしますね、と言って行岡部長は頭を下げた。私たちも慌てて頭を下げた。
🪽 🪽 🪽
こうして、足指が黒いコサギのキャラクター、「コサギさん」は、自然環境月間の発表と同時に広報紙で正式にお披露目となった。
今のところ、「コサギなのに足指が黒いじゃないか」という市民の方からのご意見は、寄せられていない。
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「色」と鳥をテーマにした小説シリーズです。次回は「青」と鳥がテーマです(7月更新予定)(とらつぐみ・鵺)