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ツグミは春を思い出す(小説)


金曜日の早朝。自室の勉強机に突っ伏して寝ていた静は、窓の外で鳴く鳥の声で目を覚ました。

ケケッ、ケケッ、というはっきりした、短い鳴き声だった。その後に、キュルキュルキュルキョロリ……とくぐもった声。

静は頬に張りついたレポート用紙を剥がして立ち上がり、窓辺まで歩くと、カーテンを開ける。明け方の空はまだ薄暗く、閑静な住宅街はくすんだ青色をしている。

大学の課題は嫌いだが、課題が終わってふと窓の外を見ると現れるこの景色は、嫌いじゃない。その青色の世界によく響く不思議な鳴き声に、静は心惹かれた。



「それは……ツグミの鳴き声じゃないか? そのあとのくぐもった声っていうのは、同じ鳥の声なら、ツグミのぐぜりかな」

その日の昼間、散歩中に近所の河原で出会った幼馴染の謡太にそのことを話すと、彼はそう教えてくれた。


「ツグミって、冬に河原で見かけたあの鳥? 茶色い小鳥で、地面では鳴かないから『ツグミ』って教えてもらった気がする」

2月ごろよく見かけた、鳩よりは小さな茶色い鳥。お腹にマダラ模様があって、ちょっと歩いては背筋をピンとして止まる動きが可愛らしかった。

「よく覚えてるね。ツグミは冬に渡ってきて春に北に帰っていく渡り鳥なんだけど、渡ってきた当初は群れで木の上にいるんだ。その時はそんな感じでよく鳴いてる」
「そうなんだ。でも今はもう春も半ばぐらいじゃない?」


4月中旬の河原は光に満ち溢れている。
コンクリートで固められていない土手の上には草が生い茂り、名も知らぬ花が色とりどりに咲き、その上をモンシロチョウがふわふわ飛んでいる。

黒色のプリントがある半袖の白いTシャツに黒のズボン、という格好で川を眺める謡太の横に、静は並んで腰を下ろしていた。


「そうだな、それがさっき『ぐぜり』じゃないかって言った理由なんだけど……ツグミはそろそろ繁殖地の北に帰るんだけど、その前にここでさえずりの練習をしていってるんじゃないかと思うんだ」

「さえずりの……練習?」
「ぐぜり、っていうのは、春になって若鳥とかがさえずりを覚えるために、他の鳥の鳴き真似を交えながら鳴く、さえずりの練習みたいなものなんだ」

首を傾げる静を見て、謡太は落ちていた木の棒で地面に文字を書きながら説明してくれた。

「鳥の鳴き声にはいくつか種類があるんだ。今、向かいの土手にスズメがいるけど、チュンチュンって鳴いてるだろ?あれは『地鳴き』って言って、鳥同士コミュニケーションをとるための、日常会話みたいな鳴き方」

「そしてもう一つは『さえずり』。これはメスへのアピールとか縄張りを主張する時のもの。ウグイスのホーホケキョとかはこっち」

「ウグイスだと、繁殖期の春から夏以外は『ジャッ、ジャッ』っていう地味な地鳴きで、さえずるのは春と夏だけなんだ」
「へぇ。ウグイスって秋冬は鳴き声しないから、いなくなってるんだとばかり思ってた」
「いなくなってたわけじゃなくて、さえずらなくなっただけだよ」

静は感心したように何度も頷いた。


謡太は静より5つ歳上だが、向かいの家に住んでいて、静が小学校に上がる前はよく一緒に遊んでいた。

小学生になるとお互い塾や習い事で忙しく遊ぶ暇もなかったが、下校中や塾帰りに見かけたらよく声をかけてくれた。

彼は昔からなんでも知っている。

周りの大人が知らないことも彼に聞いたら教えてくれたし、塾の宿題が難しすぎて泣いていたらこっそり解き方を教えてくれた。

頭の回転が速く、ハキハキと喋る彼は、マイペースで鈍臭い自分とは正反対だと静は思っていた。

周りの大人も、彼のことを秀才だと言っていたし、名門だと言われる中高一貫校に成績トップで合格した彼は、実際そうなのだろう。

「静はこれから大学? 大学にはもう慣れた?」
謡太は、春の日差しのような柔らかい声で静に聞いた。静は戸惑いを声色に出さないようにしながら答えた。

「もう2回生だから流石に慣れたって。でもゼミの課題とか必修の授業のレポートとか、やることが多すぎるんだよね。今日は4限からだけど他の日は結構びっちり授業詰まってるし。遊んでる暇なんてないんだけど」

「ははは、確かに」
「早い子は就活をもう初めてるし、バイトも毎週入れてる子とかいるから私でもまだ暇な方っていうね」

そこまで言って、静はしまったと思い、口を閉じた。ちらりと謡太の顔を見る。彼は特に顔色を変えるでもなく、水面ギリギリを低空飛行するツバメを眺めていた。

彼は東京の大学に行きそのまま向こうで就職していたが、昨年の冬に地元に戻ってきた。

『何で帰ってきたのとか聞いちゃダメよ。お母さんだいぶ神経質になってたんだから』
母にそう言われたので、詳しい経緯は聞いていない。平日の昼間に河原で見かけるので、こちらで別の仕事に就いたわけではないのは確かだろう。

「最近、就職活動の時期がどんどん早くなってるから大変だな。ただでさえ忙しいのに」
「で、でもみんな、サークルとかバイトとか、色んなのを両立してるから、私が不器用なだけかもって気になるんだよね」

謡太は頭をポリポリとかいた。彼は高校生の時は短髪だったが、今は伸びすぎた前髪で、片目が隠れそうになっている。

「色んなことやってたら偉いってもんでもないけどな。バイトもやりたくてやってりゃいいけど、やりたくもないことで時間潰すのも、損してる気がする。どうせ卒業したら毎日8時間以上、労働しなきゃいけなくなるんだし」

2人の間に流れた沈黙は、チチチッ、という鳥の鳴き声でかき消される。

静は、そろそろ行かないと授業に遅れるからと言い、河原を立ち去った。駅の方角に向かう途中で振り返り見た謡太の背中は、どことなく小さく見えた。



☆ ☆  ☆

静はその日の夜、変な夢を見た。

小学生の頃の夢だ。リビングのソファに座って、近所の駄菓子屋で買ったお菓子を食べながら、夕方のドラマの再放送を見ていると、母が帰ってきた。

『謡太くん、瀬芹学園に合格したらしいわよ。静も謡太くんを見習わなくっちゃねぇ』

母はそう言うなり、ソファの前のローテーブルにドサドサっとドリルを積み上げ、その音に静はビクッとなる。

だが積み上がっている本をよく見ると、それは小学生の頃やった漢字や計算のドリルではなかった。大学の課題だった。それも、今日提出するはずなのに手をつけていない、中間テストの代わりの課題。

ふと顔を上げると、目の前に謡太がいた。長い前髪のせいか、表情がよく見えない。

『よ、謡太くん、助けて……』
か細い声で助けを求めたが、彼はくるりと静に背を向け、リビングのガラス戸を開けて庭に出ていってしまった。

『ねえ、待ってよ!』
そう言って同じようにガラス戸から外に出ようとした時、眩しい光が顔にあたり、くらっとしたところで目が覚めた。

☆ ☆  ☆



ベッドから飛び起きると、かけ布団の上に英語の課題が置いてあるのを見つけた。
昼間のことがあって眠りにつけず、来週の課題をちょっとでも進めようと思ったら寝てしまったようだった。

傍らに置いたスマホで時間を確かめると、土曜日の午前5時。静はため息をついた。心臓に悪い悪夢だった。

目がすっかり冴えてしまった彼女は、ベッドサイドに置いてあった水色のワンピースに着替えた。

休みの日にこんな時間に起きるのは、久しぶりだった。立ち上がると、カーテンをそっと開ける。昨日起きた時よりも心なしか外の景色は明るかった。

ケケッ、ケケッ。

その時、また例の鳴き声が聞こえてきた。向かいの家の横にある電柱に、一羽の鳥の影が見える。


「あれが……ツグミかな」
静は窓を開け、しばらくその音色に聴き入った。


キュルキュル、ケケッ、キュルキュル。

キョロリキョロリ、ケケッ。


そのツグミは、しばらく不鮮明な声で鳴き続けていた。時折、他の鳥の鳴き真似のような声も混じる。言われてみると確かに、発声練習のような感じで、あてもなく鳴いている印象を受けた。

数分間鳴き続けていたツグミだが、近くにやってきたカラスの鳴き声を聞くと、慌てた様子で飛び立っていった。

「ああ、行っちゃったか……」

その鳥が飛んでいったのを見送り、ふと視線を落とすと、向かいの家の前に、謡太が立っているのが見えた。

彼は、先程までツグミがいた電柱を見上げていたが、不意に視線を静の家の方に向けた。静の姿を見つけると片手を軽く上げ、スマホを操作し始めた。

ブーッ。静が手に持っていたスマホが震える。

『これから夏鳥を探しに公園まで散歩に行くけど、一緒にどう?』



日中は長袖のシャツでも汗ばむくらいなのに、朝早くはスプリングコート一枚じゃ寒いくらいだ。謡太は、白いTシャツの上に裾の長いカーディガンを羽織っていた。よく見ると、昨日来ていたTシャツとは微妙に柄が違う。

「ああ、これはミサゴのTシャツだよ。昨日着てたのはオオタカ。どっちも猛禽類だけど、姿は全然違うし、どっちもカッコいいだろ?」

大学生の時イベントで買ったんだ、と話す謡太は心なしか早口で、昨日の昼間見た時よりも、口調や目に熱がこもっていた。

「朝の方が元気そうだね、謡太くん」

「ん? ああ、まあ、こっちに帰ってきてからは、朝早く起きて散歩するのが習慣になってるから。んで昼はハローワーク行ったり資格の勉強したり……疲れたら、河原でしばらくぼーっとしてから家帰って、早めに寝てる」

「すご、私より健康的じゃん」
「学生の時は気づかなかったけど、この辺ってすごく自然豊かで、散歩するのが面白すぎて。本当は夕方ももっと散歩したいけど、下校中の小学生に不審者だと思われないか心配なんだよな」

静はふふっ、と声に出して笑った。
「確かに否定できないかも。昼間河原でぼーっとしてる成人男性の時点で、かなり怪しいし」
「やっぱそう? 俺不審者に見えるのか……眠くてぼーっとしてるだけなのに」
悲痛そうな声色でそう言う謡太に、静はますます笑いが込み上げてきた。

「そんな、声出なくなるほど笑わなくてもいいんじゃないか……?」
「……んふふ、ごめん」

笑いながら、どこかほっとしている自分がいるのに、静は気づいていた。彼女の様子を見て、謡太も呆れたように声を出して笑った。



謡太がいつも散歩コースにしている公園は、住宅街の一角にあった。滑り台とシーソー、水飲み場、藤棚の下にいくつか設置されたベンチ。

設備の簡素さの割に植えられた植物は元気で、入り口近くの桜の木の葉っぱの間で、ピヨピヨと元気よく何かの鳥が鳴いていた。

「ここ、結構穴場なんだ。あっちにある山と川原のちょうど中間にあるから、朝は結構色んな鳥が来て面白いよ」

「今元気よく鳴いてる鳥は何?」
「ヒヨドリだな。声が大きいから、今日は他の鳥が寄り付かないかもしれないな」
「そっか、それは残念」

「姿を見ると可愛いやつなんだけどな。大学の時、俺に鳥の事を色々教えてくれた奴はヒヨドリが好きで、ヒヨドリを貶すと怒ってきた」

謡太はスマホの写真フォルダの中からヒヨドリの写真を探すと、静に見せた。灰色の身体に、頬には茶色い斑点がある。確かに目がくりっとしていて可愛らしい。

「鳥に詳しいのは、その友達の影響ってこと?」
「植物とか虫とかはちょっと知ってたけど、鳥は全然知らなくて……鳥の名前を色々教えてもらうと、今までいかにぼんやり鳥を認識してたかがわかって、ちょっと恥ずかしかったよ」

「でも社会人になってからは、そもそもこうして鳥を見る元気も無くなってたな……せっかく教えてもらって見えるようになった世界が、また見えなくなったみたいで、寂しかったな」

困ったように頭を掻く謡太を見て、静は不思議な気持ちになった。

なんでも知ってる、お手本のような秀才ではなく、自然体の幼馴染が、そこにはいた。



その時、2人の目の前にある木のてっぺんに止まっていた小鳥が、ケケッ、と短く鳴いて、逃げていった。

「今の……」
「ああ……全然気づかなかった。さっきのツグミっぽいな」
「ツグミって、あの声で鳴いてくれないと気づかないもんだね」

いつのまにか太陽は完全に昇っていて、気温も徐々に上がってきていた。公園の側を車が走り、犬を連れた人が数人、公園にやって来た。

人間が活動し始めると、鳥だけの世界になっていた公園が、一気に人間のための場所に変わっていく感じがする。謡太と静は顔を見合わせると、公園を後にして帰路についた。

「あのツグミさ」
住宅街の中をゆっくりと歩きながら、静は謡太に話しかけた。
「昨日言ってた『ぐぜり』をやってたから、若鳥かな」

謡太は首を傾げた。
「うーんどうだろな。若鳥じゃない成鳥でも、ぐぜりをやることはあるよ」

静は驚いて謡太の顔を見た。
「そうなの?一回さえずれるようになったら、ずっとさえずってるわけじゃないんだ」
「成鳥だって、秋冬の間はさえずらないから、練習は必要だよ。ひょっとしたら、秋冬はさえずりを忘れ、春にまた思い出す方が、鳥としては楽なのかもな」

「変なの。冬にはるばる日本までやってきて、春を思い出して、帰ってくのかな」
「……春を思い出す、ね」

謡太は足を止めてそう呟いた。

忘れてしまった何か大切なものを思い出している最中のような彼の遠い目が、その日中、静の頭から離れなかった。



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朝が苦手なので実は早朝の野鳥観察あんまりやったことありません、、、(とらつぐみ・鵺)