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読書感想文(1)〜アイヌ学の夜明け〜

アイヌということばを初めて聞いたのは私が小学生の頃だった。シャーマンキングという漫画に、ホロホロというアイヌの少年が登場したのがことばを知ったきっかけだ。当時はアイヌ民族なるものが北海道にいるんだなくらいにしか考えていなかった。

アイヌのことを聞いたことあるくらいだった私でも、この本を手に取ったおかげでアイヌへの見方が変わった。

アイヌ文化ってどんなもの?日本文化との違いは?アイヌ研究の現状は?(*この本の出版は1994年であることに留意)こんな疑問を抱いているなら、この本はうってつけだ。

本書は、次のような構成になっている。
・ヨーロッパにおけるアイヌとは
・アイヌ研究の歴史
・アイヌ・琉球・朝鮮文化から、日本文化の古層を捉えるには
・アイヌ研究をする上での文化、言語、地理的側面の課題

これらが国内外の教授たち、アイヌの人たちとの会談形式でまとめられている。詳しくは著書を読んでいただきたいので、この記事では私が感じたことを主に伝えていきたいと思う。


アイヌは心で知的精神活動を行う

アイヌ文化は文字を開発しなかったそうだ。これを聞いたとき、頭にぽんっと浮かんだのは、言葉は悪いが「未開」という単語だった。

文字が大陸から日本に輸入されてから久しい。その一方で、アイヌ民族が文字を開発していないというのは、驚くべき事実だった。人が文化を継承していくにあたって、文字というものは不可分だと感じるのは私だけではないと思う。

いつの世も、人は新しい何か、刺激的な何かを追い求める。それに伴い、古き何かは淘汰されることがある。その古き何かが、文化的に重要視されていないものならば尚更だ。

だからこそ、文字によって後世に文化の軌跡が残す必要があると感じる。しかし、この本を読む中で1つの仮説が生まれた。文字を持ったことで、文化は形骸化してきたのではないか、という仮説だ。
そう考えたのは、以下の引用部分があったからだ。

アイヌの伝統は人々の心に残るもので、文書には残らない。文書のない伝統は消え失せるかもしれない。それでも心が繋がった人が紡いでいく。

引用:アイヌ学の夜明け

アイヌは文字を開発しなかった一方で、口頭伝承を確実に行った。何よりも心の繋がり、対面での関係性を大切にするかのように。

彼らの文化を文書として残さないことで困るのは、アイヌの人ではなく、文化や伝統を残したいと思っている人だ。つまり、アイヌを研究している学者やアイヌという民族の伝統を残したい私たちだ。文書として残したいのは、知的探究心の結果なのかもしれないし、単に気持ち的に残したいと思っているからなのかもしれない。

しかし、アイヌの人々は口頭伝承をまっとうした。まるで、文字として残したとしても心が繋がっていない人が、彼らの伝統を理解しないことを分かっているかのように、だ。

文字でもことばでも、文化的な宝具・儀式の道具・衣装・言葉、さらには伝統そのものを字面通りに理解するのは比較的たやすいことだと思う。でも、伝統の「意義」を理解するのはたやすいことではない。

陳腐な例ではあるけれど、食事前の「いただきます」を例に挙げる。この言葉は、食糧を提供してくれた自然に感謝を表すことばだ。文字通り捉えれば、感謝をすれば良いことはわかる。しかし、なぜ自然に感謝すべきなのかを説明できる人、私も含め少ないのではないだろうか。

調べたところによると、背景にはアニミズム(よくいう八百万の神々)があるそうだ。自然にも神様が宿っているからこそ、神様から恵みをいただくことから「いただきます」という言葉ができたそうな。

しかし、これだけでは伝統は片付けられない。そもそも、なぜ神様に感謝する必要があるのだろうか。これこそが伝統の「意義」だ。

だからこそ、心が通じ合う人が紡いでいく、というアイヌの文化に心が動いた。なぜなら、文書として残したとしても、アイヌの伝統の意義を理解できなければ、自分自身のフィルターを通してしか文書を解釈ができないからだ。

研究者の想い

普段、私は研究者と関わる機会がない。だから研究者の想いを知るのに本を使う。

本書は会談形式ということもあって、研究者の想いの丈が前面に出ている気がする。本書に登場する研究者たちは、人類学・言語学の領域でいかに後世の研究者の役にたつか、アイヌの存在を一般の人に伝えることができるのかを考えていた。

研究者のそのような側面が垣間見える本はなかなかないので、このような本に出会えてよかった。

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