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音楽=歌詞のある曲、というラベルをなくした先に待っていたもの

高校生までの私にとって、音楽とは、歌詞のある曲だった。

しかし、大学に入学してから、次第に歌詞のないクラシックに興味を示すようになった。きっかけは「のだめカンタービレ」のドラマをじっくりと観たことだ。我ながら浅はかな理由だ(笑)

のだめカンタービレがきっかけになったとはいえ、私は楽譜も読めず、音のトーン・メロディの聞き分けもできない。そんな私ができることは、実際に音楽を聴くことだけだった。

MozartやRavelのようなスキップしたくなる軽快さを持つ曲、BachやHaydnのような力強い雄叫びがにじみ出る曲、Vivaldiのような季節の情景がありありと想像できる曲。素人で、知識もない私には、音楽の醸し出す雰囲気しか掴めない。それでも、雰囲気を感じ取れるだけで十分楽しい。

その後、更に音楽の偉大さを知ることになるアニメに出会う。「この音とまれ!」という、琴を演奏する高校生たちの話だ。音楽の授業中に雅楽を聴いた記憶は残っているけれど、心が動かされたのは、このアニメを観たときが初めてだった。

以降、たびたびSportifyやYouTubeにアップされている雅楽の曲を聴くことがある。雅楽は全体的に悲しさを感じる音が多い。だから、少し気持ちが落ち込んだときに聞くと、収まりが良い。音と一緒に気持ちが流れるからだ。

個人的なイメージにはなるが、クラシックが表だとすると、雅楽は裏。クラシックは目の前にいる人に対して気持ちを訴えている感じがする一方で、雅楽は遠く離れている人や今はもう会えない人を想っている感じがする。

時は流れて現在、結局音の聞き分けができないまま、私が行き着いた先は自然音だった。例えば、鳥や虫の鳴き声、水のせせらぎ、風で木々が揺れる音などだ。

子宮にいる赤ちゃんは、羊水が子宮内で流れる音を聞き慣れているらしい。この音は風で海が浜辺に打ち上げられるさざ波の音、山間部で風に揺られる木々の枝葉が風邪でそよぐ音に近いらしく、人はこの音に近いものに安心感を覚えるという。

だからだろうか。働き出して自然を感じる機会が減ってから、自然のある場所に不思議と足がむくし、足が向かないときは、音だけでも自然を感じたいと思うようになった。

普段耳に入るのは、生活音、機械音、電車や車の動く音、人ごみのザワザワとした音、ものが擦れる音だけだ。これらの音を聞く頻度が学生の頃より増えたこともあって、自然音に癒しを感じる。

音楽って、音を楽しむだったり、音で楽になると読める。高校生までの私は、音というよりも、どちらかといえばことば(歌詞)に焦点を当てていた気がする。それが次第に、音そのものに耳が入ってくるようになった。

クラシックが引き金となって私の音楽の幅が広がったのは、無意識的に音に惹かれているようになったからかもしれない。

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