想像力は優しさの起点だから

広告と想像力
 広告の表現は世の中の変化にとても敏感で最近は「マス」離れが加速している。データを中心に、いわゆるターゲティングという人の動線にあわせその人にフィットする広告をダイレクトに届けるという手法が目立つようになった。当然効率がいいからクライアントからも好まれる。この手法は広告だけでなくあらゆる「情報」に運用されている。
 人は欲しい情報だけをもらえるようになって「便利」になったと言われている。果たして本当にそうだろうか。便利になったのは発信者だけはないか。
 自分と無関係な情報は、果たして不要なものなのだろうか。かつてテレビがリビングの王様だったとき、化粧品のCMで美しさの変化を知り、飲めないウイスキーのCMに人生の悲哀を舐(な)める中年の背中の意味を知ることができた。強制的にCMを見させられるテレビは「他人の価値観」を知るひとつの装置だったのは確かだ。
 同じ価値観を持つひとたちの集合を私たちはコミュニティーと呼んで、そこへ向けてのコミュニケーションを発達させている。そこにはひとつの強い価値観があるゆえ深い関係がつくりやすい。だが、それ以外のものを排除する傾向も生まれる。いわゆるムラ化して中にいるとそのコミュニティーが世界のすべてに見えてしまうのだ。情報の効率をあげる仕組みは、実は私たちの生活から自分とは違う価値観をもつひとたち、つまり「他人」の存在を一気に遠ざけてしまっているとも言える。
 他者を知ること。他者の価値観を知ること。それは想像力を養う。想像力は優しさの起点だ。テレビやマスメディアの弱体化は、私たちが無自覚にその肌で感じ、他者との関係のなかで、自分の場所を感知できていた何か大切なものを奪ってしまっているのかもしれない。広告は時代の鏡と言われる。コミュニティー化して他者へのイマジネーションが小さくなった、つまり優しさを身につけるために努力が必要なそんな時代なのかもしれない。
 テクノロジーは加速度的に進化し環境を劇的に変える。進化の先端で時代を謳歌(おうか)することは楽しい。だが、何かを獲得するときひとは必ず何かを喪失してもいる。そのことを忘れずにいたい。自分ではない誰かの生活をきちんとイメージできる人間でいたい。

              寄稿 2018年12月23日 西日本新聞

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