24年目の六文銭そして映像の世紀バタフライエフェクト。

六の日の前に

 2024年6月6日、恒例の六文銭、六の日が開催された。恒例と記したがこれは2000年にまず”まるで六文銭のように”として3人で復活してからのことで長い、長い六文銭の歴史の中(現在の六文銭は9代とも10代目とも言われる)ではまだまだ最近のことである。

 因みにタイトルの24年目とは六文銭が2000年に再び活動を開始してからである。そして今の六文銭の母体でもある(多分)7代目か8代目の六文銭からのファン歴は53年になる。

 さて六文銭に話を戻せば、1967年頃PPMフォロワーズとして活動していた小室さんと小林雄二さんを中心にメンバーを入れ替えながらも六文銭がスタートする。初期のメンバーには石川鷹彦さん、岩沢幸矢さんなどの名前がある。更には小室さんの奥様である小室のり子さんや小林百合子さん、関西フォークの印象が強い木田高介さんらの名前もあった。計算すると六文銭としては今年で約57年目となるのであるが、その全てで中心メンバーなのが小室さん、まさに驚異的というか驚愕しかない。そして今の六文銭のもう一人の雄である及川恒平さんもまた1970年からの参加ということでこちらは54年目(まあ間に28年近く六文銭自体がないのだが・・)となる。

 この二人の出会いこそ今に繋がる六文銭の音楽性を決定づけたのだが、少し歴史を遡れば、1967年頃、当時すでに東のフォークソングの雄であった小室さんがハイスクールライフというフリーペーパーに日本を代表する詩人の詩に曲をつけて六文銭挽歌集として発表していた。(詳しくはこちらhttps://note.com/bxjp/n/ne9c8b2576e3d)リンク先を参照いただければわかるけれどとても高校生が理解できるようなものでなく当時の最先端を行く芸術・文学・文化を網羅したものであった。そしてこのフリーペーパーの2代目編集長が松岡正剛さんである。六の日、当日のMCの中で及川さんが小室さんを認識したのは、このハイスクールライフに収められた六文銭挽歌集の中の一つである詩人の大岡信さんの詩に小室さんが曲をつけた”私は月には行かないだろう”だったとおっしゃっていた。因みに小室さん個人としてのファーストアルバムであるタイトルも『私は月には行かないだろう』には六文銭挽歌集として掲載された曲の多くが収録されている。

小室さんのファーストアルバム、お隣は奥様ののり子さん
デザインは盟友でハイスクールライフのデザインも担当されていた小島武さん。クレジットには当時の六文銭メンバーである及川さん、のり子さん、若松広正さんに加え原茂さん、入川捷さん、木田高介さんなどの名もある。

 さて、話は前後するが小室さんと及川さんの出会いについてである。別役実さんの戯曲『スパイ物語』は前述の六文銭挽歌集の中の曲である別役さんの詩”ヒゲのはえたスパイ”を下に戯曲化したもので、その流れで小室さんが劇中歌制作と座付楽団として楽団六文銭を編成、そこに青山学院大学演劇部から手伝いに来ていた及川さんが参加して終演後も六文銭として加わったということになっている(2020年小室さんが別役実さんの訃報に際して週刊金曜日寄稿した内容より)が、MCなどで及川さんは、元々座付の音楽家として参加していた及川さんを小室さんが来て追い出したとも話されているが(笑)少なくとも出会った時期については間違いがないようだ。言うまでもないが六文銭の代表曲の一つ”雨が空から降れば”はこのスパイ物語の劇中歌である。

24年目の六の日のレポート

 毎度のことながら、コンレポの前に長々と六文銭の歴史について書いてしまった。実は今回、六の日に参加して変わらないパフォーマンスに接して改めて考えたのはこのユニットの素晴らしさを年に数回のオーディエンスの物だけにしておいていいのだろうかと言う想いだった。今回の会場は南青山のマンダラだったのだが、前回このユニットをここで見たのは2008年、まだ「まるで六文銭のように」の時代だが、会場には本格的な撮影ユニットが入っていた。しかしその後その映像を見ることはなかった。無論、その撮影の目的も知らないのだが約2時間のMCを含めたライブパフォーマンスをアーカイブとして残していないことは日本の音楽文化として大きな損失ではないかと思う。昔、小沢昭一さんが古来からの日本の放浪芸が消えゆくことを恐れて日本各地を回って採譜していたのとは次元は違うが、日本のフォークソング、戯曲音楽の歴史を背負いかつ歴史上の話ではなく今も生き続けるこのユニットのパフォーマンスはある意味、無形文化財だと思う。
 
 レコードやCDなどの音源を除き、残念ながら私の知る限りはゲストとして数曲歌われたりしたもの以外は映像としてはいまだに1971年の中津川フォークジャンボリー程度しか残っていないのはこのユニットの価値からして余りに勿体無いし(まる六時代にCS番組のFOLK&LOCK ALIVEで収録されたバックインタウンでのLIVE映像が唯一かも知れないが)残念でならない。小室さんや及川さんがお元気な内に是非ともMCを含めて六文銭のLIVEとしてアーカイブ化して六文銭の素晴らしさを後世に残されることを願って、WEB上の塵のような存在ではあるが、少しでも痕跡を残しておかねばと思った次第である。六文銭としてのLIVE感、演劇のサウンドトラックではない映像としての一体としたパフォーマンスは間違いなく日本の音楽シーンに限らず文化史的勝ちとしてもアーカイブとして保存されるべきものだと思っている。

 本題に戻ろう。今回の六の日は東京のど真ん中、南青山のマンダラでの開催である。これはマンダラが30周年のアニバーサリーということで数多くのアーティストが記念LIVEを行なっていたのだが、6月6日はその最終日、トリを飾る形で六文銭のLIVEが行われたのだ。約2ヶ月前、開催告知がされるとすぐにLIVEの予約と行き帰りのバスの予約を行なった。できることなら一泊ぐらいしたいところだが、オーバーツーリズムなのか、軒並み宿泊費が高騰しており、以前コロナ禍の際の宿泊の際とは雲泥の差、年金生活者としては深夜バスで往復7000円程の交通費が限界だろう。とは言え早期の予約なので深夜分は3列シートでゆったり乗っていけるのが救いである。

 会場までの数時間、虎ノ門ヒルズ横の気象庁へ行ってきた。気象庁が入居しているビルには港区立みなと科学館と気象科学館がありちょっとした時間潰しには最適、しかも一般も利用できる職員食堂もあり550円のビッグコロッケ定食の夕食も摂ることができた。

科学館のパンフレットと六文銭のチケット。

本日の開場は6時、そして7時開演だが座席の指定はないので少し早めの5時半にはマンダラに到着した。そこには老若男女ならず老老?男女が入場へ向けて列ができていた。すでにSOLDOUTなのでやや変形の会場のあちこちへ席を求めていく。ウロウロしていると知人が声をかけてくれてお隣の席を確保した。

 定刻となり、六文銭の皆さんがチューニングを始める。小室さんが「まだだよ」とおっしゃりながら正面を向かれたと思うと他の皆さんがスタンバイ体制になっていない中で小室さんが情感たっぷりに”比叡おろし”を歌い始めた。最近まで六文銭としては歌われなかった比叡おろしだが、歌い終わった小室さんが「この曲、作詞作曲も松岡正剛さんなんだけど」と話され(当時、松岡さんは六文銭のマネージャーのようなことをやって見えたようだが)松岡さんが鼻歌みたいにこんなのどうと小室さんに聞かせて小室さんが仕上げたものだそうだ。これを受けて恒平さんが「完全に小室節だし小室さん作曲でいいよ」と。
 続いて皆さんで曲の準備、小室さんが色々試して見える。すかさず介護士?のゆいさんが「出だしの部分がわからないんでしょ?」と手助け始まった曲は戯曲スパイ物語の元になった歌、前述の六文銭挽歌集の一つでもある”ヒゲの生えたスパイ”だった。続いてはそのスパイ物語の劇中歌でもある”雨が空から降れば”を恒平さんのリードヴォーカルで、恒平さんはいつものように「しょうがない雨の日はしょうがない」の部分をオーディエンスにも歌うようにアピール。実は最近恒平さんは足の調子が悪いのかお一人だけ椅子に座ってのパフォーマンスだが、その分いくらかいつものパワフルさが影を潜めていたのだけれど、今日は座ったままとはいえ、パワフルさが戻ってきたようだ。
 またまた小室さんがピックのあたりを気にして見える。ゆいさんに楽屋に代わりの指ピックを取り行ってくるように頼んだのだが、結局ステージにあるケースにあったようで介護も大変だなあと思わず。続いての曲は、戯曲 街と飛行船の再演にあたり、劇中歌を整理していたのだが、結局見つけることができずなのかそもそも作っていなかったのかもわからず、ええいままよと新たに作り直したものの中の1曲である”それは遠くの街”。確認を兼ねて病床の別役さんに演出家と一緒に作った曲を紹介すると別役さんは「いい曲だね」とおっしゃったそうだ。本来劇中歌は番号が振られるだけだがCD自由に収録するにあたりこのタイトルがつけられたとのことだった。
 続いての曲は私は六文銭として聴くのは初めての曲、原茂さん作曲の
”私の家”四角さんのリードボーカルで。この曲はLP キングサーモンのいる島に収録されているもので、このLPには小室さんや恒平さん以外のメンバーも1曲ずつ作曲をしたものが収録されていたもので原曲はギタリストの原さんの伸びやかな声で歌われていた。個人的には自分でも歌える曲ということで好きな曲の一つであった。
 同じくキングサーモンからの曲が続く。この歌は当時まだ幼かったゆいさんが一番気に入っていた曲だそうで、なんとゆいさんがリードヴォーカルを担当した"サーカスゲーム”、そして定番の”夏・二人で”
 ここで再び別役作品で、定番の発売禁止歌の話。考えて見ると昔はフォークるの”イムジン河”のように結構発売禁止歌ってあった気がするが、最近は全く聞かなくなった。元々法律でもなんでもなくレコード業界の自主規制という名の忖度だからそのほとんだが今や普通に歌われたりCDに収録されたりしている。なんとなくヌード写真の陰毛に黒マジックしたような印象を受けるのは私だけだろうか?ということで”街と飛行船”。ところが不思議なもので1972年の芸術祭大賞を受賞したNHK FMの番組「ステレオによる叙事詩 フォーシーズン」は当時NHKのディレクターであった和田智充さんがライブハウスで聞いた”街と飛行船”に興味を持って1年間歌っていた六文銭を追いかけたドキュメンタリーであったのだが、当然番組内では発売禁止になった街と飛行船がオンエアーされている。こんな恣意的にいいとか悪いとか決めつけられるこの国、社会ってやっぱり変だし、進歩していないなあと思う。因みにこのドキュメンタリーの冒頭のナレーションが今でも頭から離れない。「"1972年5月,ひとつの島がもうひとつの大きな島に統合された頃,ひとつのフォークグループが解体した"」当然ながら一つの島とは沖縄であり、大きな島とは日本、グループとは六文銭のことである。
 発売禁止歌の紹介?を兼ねてげんしばくだんのうた”も少し披露され、前半最後は”面影橋”でしばしの休息に入った。

何故か及川さんが乃川になっている!?
皆さんを待つステージ

 後半のスタートは黒田三郎の詩に曲をつけた”道” 最近のLIVEでは定番曲である元々の六文銭挽歌集は作詞家ではなく、所謂詩人の詩に小室さんが曲をつけたものであるが、その意味では現代の六文銭挽歌集なのかもしれない。基本的に作詞をしない小室さんは挽歌集の後も谷川俊太郎さんと組んだ楽曲やこの黒田さんの詩を紹介した中原中也の研究者であり詩人でもある盟友の佐々木幹郎さんの詩も数多く楽曲にしている。恒平さんも詩人の一人でもあるから六文銭の場合は「作詞」ではなく「作詩」の方が正解かも知れない。

 次の曲は恒平さんの”戦場はさみしい” 。曲が終わって、小室さんが恒平さんに「どうしてこの曲を作ったの?」と聞いたら「最近、反戦歌がなくなってきたから」と答えられた。いつものように今日のLIVEもセットリストは恒平さんが考えるのだが、反戦歌はまだまだ中原中也の詩に曲をつけた”サーカス”と続く。そしてある意味恒平さんがご家族をイメージした”世界はまだ” 無論、リアルなものではないが家族愛が沁みてくる歌だ。
続いて最近のセットリストには必ず入ってくる有働薫さんの詩に恒平さんが曲をつけた”白無地方向幕”。それは何かというMCは定番だが、今回はスルーされていた。
 そしてある意味、六文銭にしか歌えないし創れない曲、歌?というかメロディをつけた朗読というか、”樽をころがせ”や”石と死者”にもつながる佐々木幹郎さんの詩(詩としても一般的ではないかも知れないが)に曲をつけた”てんでばらばら 山羊汁の未練”。まさにこれ自体が短い音楽劇のような曲である。題材は朝鮮戦争を経て当時軍事政権に対して韓国の民主化を図ろうとする市民・学生を巻き込んだ光州事件である。詳しくは以下参照

https://www.huffingtonpost.jp/2015/05/19/kwangju-35th-aniv_n_7311100.html

バタフライエフェクト

バタフライエフェクトとは非常に小さな出来事が最終的には予想できないほど大きな出来事につながると言う意味である。
 実は六の日の後、NHKで放送された映像の世紀バタフライエフェクト『安保闘争 燃え盛った政治の季節』という番組にやられてしまっていた。このコンレポが中々仕上がらなかった理由もそこにあった。

 1960年安保条約締結前夜を中心に描かれた番組だが、冒頭出てくるのは1961年に始まった当時の人気テレビ”夢で会いましょう”だった。番組では毎月、永さん作詞で八代さん作曲の今月の歌が披露されるのだが、その中一番の大ヒット曲が”上を向いて歩こう”だった。ただその歌に対する永さんのコメントとして「この歌は励ましの詞じゃないんです。前年の60年安保で僕が感じた挫折を歌ったものですから、どちらかというと泣き虫の歌であってその歌を歌って励まされた気分になるのは何かの間違いじゃないかと思って」と紹介されている。
 今やアメリカとの安全保障条約なんて気にする人はいないと思うが戦後日本の独立を定めたサンフランシスコ講和条約、実は締結されたその日もう一つの条約が締結されたのだが、それが日米安全保障条約である。講和条約は連合国と締結されたが安全保障条約の方はアメリカとの条約であり実質的には米軍との条約なのだ(締結場所も米軍基地内であった)。しかもその内容は日本独立後も米軍が(アジアの安定=ソビエトを中心とする共産勢力の阻止という名目で、決して日本のためではなくアメリカのために)日本に駐留することを前提としたもので、従って有事であってもその駐留米軍には日本を防衛する義務はないというとんでもない不平等条約であった。それでも当時の日本は朝鮮戦争に伴う好景気でその内容に特段気にする様子はなかったようである。ところが米軍が条約を盾に基地拡大を図り市民の農地を強制収容しようとする辺りから、条約の内容に疑義を持つ市民が急激に拡大、砂川事件として闘争に火がつき始めた。(以上は番組内容より)

 そしてその条約の改定時期が1960年に訪れることになる。これが所謂60年安保闘争である。まだ6歳だった私は安保闘争に関しては当時通っていた床屋さんにあったアサヒグラフという写真雑誌で樺美智子という人が国会デモの最中に機動隊に殺されたと言う記事を見た記憶が微かにある程度だった。ただ番組を見進めていく中で恥ずかしながら古希を迎えてやっと、昔から色々疑問に思っていたこの国の暗闇の謎がわずかながらわかってきたように感じたのだ。これがまさにやられたと言う感覚である。

 さて問題の60年安保改定、形式的に有事に際しては米軍が日本を守り、同時に自衛隊が米軍を守ると言う項目が追加されただけである。ここで一つの疑問、自衛隊って軍隊じゃないよな?その自衛隊が米軍を守るってどういうことだろう。実質的には自衛隊が米軍の指揮下に入ると同義ではないのか? 
 そもそも戦後日本に民主化と平和憲法を持ち込んだアメリカの姿勢と矛盾しないのか?これも冷静に考えれば民主化&平和憲法を持ち込んだGHQは連合国軍でありサンフランシスコ講和条約の相手である。実質同じと言いながら正に理想と現実、GHQが持ち込んだ理想は冷戦を戦うアメリカ(軍)によっていとも容易く打ち砕かれたと言える。何せ自由の国アメリカですら国内では赤狩りと称して多くの政治家、文化人、芸術家、科学者までも追放される(原爆の父と呼ばれたオッペンハイマーまでその対象だったのだから)自国のためなら(と言うより時の権力者が思えば)平気で矛盾を正当化する国である。
 その意味で考えると60年安保を締結した首相は岸信介である。東條内閣の大臣として第二次世界大戦開戦に署名した一員としてGHQにより戦犯とされたにも関わらず、何故か釈放され8年後には総理大臣になっていた。そして安保改定を自らの使命とし、改定後総理を辞任しているが米軍が戦犯の岸を使って安全保障条約を改定させたとも言えるのではないか?
 この現実に流石に呑気に浮かれていた国民も砂川事件の現実からこの条約改定に疑義を持ち、ましてやそれを推進するのが岸と言う亡霊による戦前回帰への不安から国を挙げての反対闘争に発展していったのは当然と言えば当然であった。闘争の中心は所謂全学連、委員長は北大の唐牛氏、平和憲法の申し子でもある彼はガンジーばりに反対運動を統率していく。今では信じられないが国会を10万以上の市民が取り囲んだ安保反対闘争には、学生だけでなく市井の市民がそれこそ老若男女を問わず参加していた。番組で紹介されていたのは患者に見送られる医師や看護師など医療関係者、バイクにまたがる商店主、割烹着を着たお母さん達、役者や芸能人(反対署名活動をする吉永小百合さんの姿もあった)そして番組冒頭にあった永さんも安保反対、岸退陣を叫ぶデモに参加していた。インタビューに答えていた主婦は「ああこれが国民主権ということなんだな」と。当然と言えば当然だが記者クラブ制度にあぐらをかいている御用メディアばかりではなくこの国会デモもラジオ関東(現ラジオ日本)は生中継を行なっていた。番組内でもその音声が使われていたのだが、私はそれを約50年前TBSの林美雄さんの番組で、彼が敬愛する島アナウンサーの実況として聞いたことがあった。当時のデモ隊は完全非武装でヘルメットすら被っていなかったのだが、岸が鎮圧のために送り込んだのは第四機動隊と呼ばれる暴力を厭わない警官隊で、島さんの実況で”信じられない暴力です。お前何をやっているんだと言って私の頬を殴っています”という生々しい音声が流れていた。そしてその実況のデモの中で樺美智子さんが亡くなったのだ。その何年か後にテレビで見た天安門事件や香港の雨傘デモ、そして前述の光州事件と同じ光景がこの日本でもあったことを目の当たりにした。
 その後の流れは全学連はセクト化、先鋭化し一般学生や市井の市民とは乖離していったのはすでに物心ついていた私自身が実感している。そして国民主権を体現して参加していたはずの多くの学生達はデモに参加していたことすら忘れてそのエネルギーをエコノミックアニマルとして社畜化して行ったのもまた自然の流れだったのかも知れない。
 番組の最後に再び永さんの肉声が流れる「デモに参加したり市民運動に参加したりしたあと本当に無惨な気持ちで歩いて家に帰るということを繰り返していました。それくらい権力っていうものや暴力っていうものがのしかかってきたんですね。まさに泣いてなんかいられないけど泣かずにいられない」2011年NHK 上を向いて歩こう〜日本人の希望の歌 その真実〜
https://www.nhk.jp/p/butterfly/ts/9N81M92LXV/episode/te/RP2QX4JGJ5/

 安保改定を機に(騒動の責任を取ったというより何かと引き換えに米軍からの与えられた任務が終わったということで)岸は退陣したが、その後の日本は野党が弱体化する中、その流れを汲む弟でもある佐藤栄作、そして孫である安倍晋三まで、アメリカにとっては非常に都合の良い政権が続いていったのは果たして偶然なのだろうか? そして同時にエセ右翼達は本来であればアメリカの傀儡政権であるこの一族を否定すべきなのに彼らがばら撒く利権に群がるように同化していく。彼らの平和憲法の否定もGHQとアメリカ軍を別と考えれば理解できないわけではないが、それは理想に対する日本にとっての現実ではなく、民主化が未完成のまま経済だけ自立して行った完全独立とは言えないアメリカ軍の傀儡政権のような日本の姿だったと思う。だからこそ日本では日米地位協定さえ改定できず沖縄を筆頭に市民が犠牲になっているのだと。

再び六の日に戻って

 さてさて余談がとてつもなく長くなってしまった。
この後、LIVEは散々詩人って言うのは怪しい人種だと言っていた小室さん自身の作詞である”長い夢”そして本編最後は、再びハイスクールライフに戻る形で、恒平さん曰く小室さんを最初に認識した歌と評した"私は月にはいかないだろう”。そしてアンコールはいつもどおり”出発の歌”だった。

バタフライエフェクト、今年古希を迎えた私は正に安保条約と同じこの国の歴史の上を歩んできたことになる。そして言うまでもなく17歳で出会った六文銭は(休止中?は小室さんを中心に)同じく54年近く同じ時の流れの中にいたことになる。何者でもない私自身にはそれが何につながるのか知るよしもないが、残された時間はこれまでと同じように私らしく生きていきたいと思う。その傍らにはいつまでも六文銭があることを願いながら。




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