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小坂井敏晶『民族という虚構』-虚構に支配される私たち-

まず最初に本書の公式紹介ページと概要のリンクを掲載しておく。

0. 導入
2021年に小坂井の『格差という虚構』が出版された。発売後すぐにそれを購入したが、少し読んでみると過去の著作においても虚構をテーマにしていることが判明した。同じテーマなら古い方から順に読んだ方が理解が深まるのではないかと思い、『民族という虚構』『責任という虚構』も購入した。今回は虚構シリーズの最初である『民族』を取り上げる。読み終わってみると『責任』につながるような内容もあったため、この順に読んで正解だったと思う。類書に小坂井の『人が人を裁くということ』(岩波新書)があり、これは裁判をベースに責任と虚構を論じたものである。こちらは読み終えており、十分オススメできるものと考えている(このようにnoteの題材にするかは未定である)。今回は各章を簡単にさらってから、考えたことを述べようと思う。

1. 第1章 民族の虚構性
概要でほとんど触れているためここでは簡単にしたい。人間は生まれた瞬間にどの国、どの地域、周囲にはどのような形質の人が多く存在するという環境情報を付与される。どうやら地域によっては自分の周囲とは異なるように感じる人間がいるらしい。どういうところに差があるのか分類してみよう。
身長、体重、瞳の色…。差は無数に存在するからすべての評価軸を同じ重みで考えると分類などまったくできない。そこで恣意的に肌の色など、今日でいう「民族」のちがいを決める因子が選択された。因子はなんでもよかったのだ。今は否定された学説だが、頭の大きさ(頭が大きい方が脳が発達し優秀であるという仮説による)で分類しようとした学者もいた。その学者の「民族」は頭が大きかったから、自分の「民族」が他より劣るという分類になりうる因子を選択できなかった。
人種や民族は主観的に生み出された虚構である。たとえば日本人は100年も経てば全員入れ替わっているが、それでも「日本人」という集団は引き継がれているように感じる。なぜだろうか。

2. 第2章 民族同一性のからくり
血縁関係のある者はなんとんなく同じ民族であるように感じる。たとえばヨーロッパは国どうしが陸続きであることもあり外国から自国に移動し、そこに根付くことによって異なる民族がひとつの民族になる感覚を味わうかもしれない。それに対して日本は単一民族であるように思えるが、歴史家によりそれは否定されている。
人の性質としての民族が単一なのではなく、国内部での政治的統一が可能であったため、ひとつの民族という表象が後から出来上がったのである。親戚は血縁でつながっているとふつうは考える第1章でみたように血のつながり以外の因子を恣意的にもってくれば、「血縁」でさえ虚構になる。親子間であっても血液型が違えば輸血できない。輸血できない親子には血縁がないのだろうか?

3. 第3章 虚構と現実
キリスト教の伝統的な世界観では、物質的な利益を排除し、魂の救済を目指すことが求められていた。この考えのもとでは資本主義は発展しない。当時の考え方のひとつに、神に救われるかどうかはあらかじめ決まっているという予定説があった。この予定説が資本主義の発展につながる考え方への変化をもたらした。どんなことをやっていても神に救われるか救われないかが決まっていて、自分でどちらなのかを確認することはできない。しかし、仕事をせず遊びほうける者が神に救済されるだろうか?神に選ばれし者は敬虔な生活を送る有能な人間であるはずだ(当然この思考過程はすべて虚構である)。毎日努力できるということが神に選ばれし集団の一員である証明なのだ。このような虚構を信じることで結果的に信者は精神的・物質的利益が得られ、資本主義発展の基礎ができあがってくる。経済的に豊かになることもまた神に選ばれし者の予定なのだという循環が生じる。思い込みや信心深いことという虚構が現実を捻じ曲げるのだ。神に選ばれし者である基準は本当は何もなく、信者が勤勉さを基準だと恣意的に選択したのだが、本人は恣意的であることに無自覚である。虚構であることが隠蔽されていることもまた、虚構が現実に影響する条件である。

4. 第4章 物語としての記憶
対立するAとBの主張があり、あなたはAに賛意を示している。ここで、謝礼金を支払うからBに賛成してほしいとお願いされたとしよう。大金をつまれれば、本当はAに賛成だけれどもBに賛成する姿勢を見せることはできるだろう。しかし、少しのお金しか手に入らない場合は、意見を変える苦痛の穴埋めにならない。すると、「Aがよいと思っていたが、よく考えるとBの方が正しい」と、認識がゆがんで固定されてしまうことが実験的に明らかになっている。この実験は、被験者の自由意思によってAからBに意見を変えさせているようにみえる。しかし実際は外界の影響(たとえば謝礼金の多寡)を受けているから自由意思、あるいは自由というものが虚構であるととらえなければならない。自分の頭で考え、後から内省できるような個人主義者はそうでない人に比べてかえって意識と行動のずれ(Aに賛成なのにBに寝返ってしまう)ことを無意識に合理化してしまうのだ。学校で歴史を勉強するとき、教科書の説明は自国民、あるいは近しい民族の目線で書かれている。記述する人の解釈、歪曲あるいは忘却が教科書には反映されている。「事実」とはなんなのだろうか。

5. 第5章 共同体の絆
ナチスドイツの行為に対する責任を、現在のドイツ国民がとらなければいけないのはなぜなのか。第1章でも述べられているように、当時のドイツの構成員はいない。私が殺人を犯しても、親がかわりに裁判にかけられて収監されることは法体系からいってありえない。血縁があっても責任が誰かにわたることはないのだから、共同体構成員のなかで引き継がれる責任は血縁以外のなにかによるものだろう。可能性のひとつが心理的同一性である。親が警察に逮捕され有罪になると「犯罪者の子供」として自らの状況を親に重ね合わせて恥ずかしく、苦しく思う。子が法的に罰せられることはないが、子から親への自己同一化によって責任範囲が拡大している。同様に、ナチスドイツの行為も現在のドイツ国民に責任範囲が拡大している。国のトップ同士が条約を結び、トップが交代した際に後任が「私は同意していないから条約は無効である」と主張することは可能であるが、社会契約的観念からいって、虚構であってもその連続性を認めなければならない。ある意味で虚構は仮想的実体である。「集合」として変化しても「集団」は同一であるという認識を虚構の助けを借りながら持たなければ、世界を構築することはできない。

6. 第6章 開かれた共同体概念を求めて
日本からヨーロッパのどこかの国に引っ越したとしよう。そこで私は、周囲の人とのかかわりを通じてその国の文化や風習を吸収するだろう。ここで、私が一方的に吸収、同化しているのではないということを理解しておきたい。少数派である「私」も周囲に何らかの影響を及ぼしている。それがすぐに顕在化しなかったとしても、少数派の影響がなかったことにはならない。少数派の影響が周囲に沈殿し、時間がたってから顕在化すると、それはあたかも自分が思いついたかのように錯覚する。そこから(良し悪し両面あるが)社会の変化が作られる。自分が思いついたという虚構が現実に影響しているのだ。移民などの少数派を受け入れる際、少数派の文化を抑圧するとこのような変化が起こらない。

7. 補考 虚構論
親しくする人が殺された。時間は戻せず、その人は生き返らない。そうであればせめて殺人犯を殺してマイナスの穴埋めをしたいと考える。殺人犯がいなければ、その人だって死ななかった。この行為は過去を指向している。一方、このような復讐をせずにその殺人犯を赦したとしよう。赦しは未来への投機である。赦したからといってその人が生き返ることは当然ない。損害が完全には回復されないまますべてを白紙に戻し、新たな関係を築いていく。赦しという象徴的行為は被害者(あるいは近しい人)がもつ権利の放棄である。契約論理においては不合理な選択である。合理性から逸脱することで前に進むことができる。

8. 私見 虚構を虚構のまま受け入れさせてほしい
2011年の東日本大震災当時、私が住んでいた地域も地震があったようなのだがバスに乗っていたせいかそれを感じることはできなかった。バスから降り帰宅してなんとなしにテレビをつけると、すさまじい光景が広がっている。私にとっては特に気にならない程度の地震であるが、それを目にして胸が苦しくなった。東北地方出身の知り合いが数人いるとはいえ、自分と直接関係ないといえば、ない。それでも苦しさを覚えるのは筆者のいうように虚構が現実に作用しているということであろう。でも、それでよい。
客観的な証明が困難なものは虚構によって成り立っているといってもいいのかもしれない。友人とは「自分が相手を友人と思うこと(これは自分が証人たりうる)」ことと「相手が自分を友人と思うこと(証明が難しい)」が必要十分だが、友達証明書などないのだから虚構の助けを借りて「友達である」とみなすほかない。恋人だって傍証以上に説得力のある証拠はない。裁判において物証以上に取り調べでの自白が重要視されるのも、捜査官のストーリー作りも含めて虚構に依存しているといえるかもしれない(少なくとも自然科学の分野で主観的証拠が客観的証拠よりも価値を見出されることはほとんどない)。
虚構は虚構(フィクション)であって虚偽(ウソ)ではない。アダルトゲームやアダルトビデオは虚構であって、我々が生きている世界とは異なる法規制や倫理観をもつ世界と理解すべきであり、本来は「登場人物は全員18歳以上です」などのいわゆる「魔法の言葉」によって我々の世界のルールにおける年齢に虚偽がある等の可能性をつぶす必要はない。むしろ「魔法の言葉」によって虚構が不必要に現実に近づきすぎる。本書の書名でもある民族という虚構は現実世界に対立等の問題を与えているとはいえ、その存在(実在ではない)を完全に否定するものはいないだろう。一方で、虚構自身に「私はあなたの世界のルールに基づいた虚構です、そこに虚偽はありません」と宣言させてしまうような虚構の種類があるのはなぜだろう。たとえば、マンガやアニメ、ゲームは重大犯罪を助長するから法規制すべきだという意見は学術的な研究により因果関係を否定されているが、こういった意見が出るのは、これらの虚構が人間に与える影響を過大評価(結果的には虚偽となる)していることを示すだろう。虚構は世界中にあふれているのに、特定の種類の虚構だけが現代的な問題として敵視されている。敵視する人々はpolitically correctと思っているだろうが、往々にしてscientifically incorrectである。虚構との付き合い方を誤ると、客観的に正しくあろうとする科学にも悪影響があるのではないかと懸念している。

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