文章を書くということ・1

「文章を書く」という仕事が自分の仕事の一環となってもうすぐ20年近くになる。

前職のフリーペーパー「JUICE」で自分の担当させて頂いているアーティストを取材させて頂いたり、ライブレポートを書かせて頂いたり、という前に、自分の書いた文章が書店に並んだ瞬間から、「文章を書くこと」を意識するようになった、いや、もっと前かも知れないけど。

90年代初頭の話だ。自分のいたバンドが、地元でNo.1のライブハウスに出演した翌日、バイト先の電話が鳴った。自分宛で、そのライブハウスのプロデューサーからだった。その時、忘れもしないんだけど、煙草を吸いながら新しく入ってきたスネアを勝手にチューニングしたりして遊んでいた。いや、一応販売の為に商品を知る、という仕事のつもりでやっていたんだけど、今思うと完全に遊んでいた。バイト先は有名な楽器店だったので、別にライブハウスから電話がかかってくるのは珍しいことではなかったが、自分宛にかかってくるのは珍しい事だった。「林か?おまえら、俺が今日から面倒見させてもらうから。詳しくは次のライブの時話すから。じゃあな」と言って電話は切れた。なんて一方的な電話だったんだ。しかし、即メンバーに電話して、「あのライブハウスが面倒見てくれるって!」と大騒ぎしたのを覚えている。もちろん仕事中に、売り場から電話した。

当時はインディーズバンドの事務所的な部分をライブハウスが請け負うっていうのはよくある話だった。ライブのスケジュールや、ちょっとしたツアーとか、ほぼライブハウス経由で話をする事が多かった。レコーディングとかも。地元にあるライブハウスで有力なライブハウスは当時2軒あって、どちらかに出たらどちらかには出られない、というしきたりじゃないけど、棲み分け、みたいなのがあった。何故かウチのバンドは特例扱いなのか、なんなのかわからないけど、両方出たりしていた。それに対して文句を言われたことも一度もなかった。たぶん、大人たちが面倒臭かったんだと思う、オレたちの事が。特にオレが。

話を戻すけど、その面倒を見てくれているライブハウスが毎月B5サイズ2つ折のマンスリーを出していた(奇しくも今自分が作っている「FIX」とサイズ以外の体裁は同じだ)。スケジュールが載っていて、コラムのコーナーとかもあって、地元の有名なバンドマンがリレー形式でコラムを連載していた。そのコーナーの連載がドラム兼特攻隊長兼広報の自分のところに回ってきたのだ。

当時は手書きor良くてワープロで、親父のワープロを奪ってスラスラ書いた。たぶん1時間もかからなかったと思う。FAXで送ったのか、持参したのか忘れたけれど、その原稿はその月のマンスリーに掲載され、そのライブハウスに顔を出す度に「面白かったよ」とか「あの文章の人ですよね?」とか言ってもらえた。ひょっとしたら、その時に「文章を書くということ」の楽しさを(多少勘違いしながら)覚えたのかも知れない。

続く

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