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珍海と醍醐寺の関わりについて

これは、いつものブログではなく、僕が個人的に興味の有る院政期の僧侶・珍海についてまとめたレポートです。

内容は、以前に投稿した動画をベースにしていますので、もし動画が面白かったという方でしたら、楽しんでいただけると思います。

動画はこちらです↓


それでは、どうぞ御覧くださいませ!


珍海と醍醐寺の関わりについて
加藤拓雅


はじめに
東大寺・三論宗の珍海(1092-1152)は、「斯人三論因明之英才也」と学匠として知られ、また浄土思想にも深く傾倒していた。また、画家としても活動し、こちらでも多くの研究がなされている。

一方、真言宗においても醍醐寺の定海(1074-1149 三宝院大僧正)から受法しているが、一般的には南都の学僧として知られているのではないだろうか。

たとえば坂上雅翁先生も「珍海は永観とともに、平安末期の南都浄土教を代表する東大寺三論宗の学僧であり、その住坊や位から、「禅那院」とか「珍海已講」と称される」と評されている。

また、「珍海と前後する平安から鎌倉にかけての南都浄土教を全体的に眺めてみると、南都六宗という、いわゆる旧仏教の中に浄土往生を願う人々が多く輩出した背景には、末法思想の流行とともに、どちらかといえば実践行をあまり持たない学問宗としての立場の仏教の限界というものをうかがわせる。」とも評され、これまでの研究では、東大寺・三論宗の学僧が、後年醍醐寺でも受法したとされており、当初、真言宗との関係は希薄と見られてきた。

一方、永村眞先生は「東大寺を本寺とする珍海であるが(中略)三宝院定海の門弟として康治二年の後七日御修法に出仕し、しかも「醍醐住僧」として寺内禅那院に止住していた(中略)また醍醐寺の定額僧と円光院学頭を兼ねていた。」と指摘されている。

それでは、実際には珍海の真言宗、特に醍醐寺との関わりはいつ頃から、どの程度であるのか、について考察してみたい。


本論
珍海が東大寺東南院覚樹(1081-1111)の元で出家したのは
凝然『内典塵露章』「三論宗」「樹公(覚樹)の下に珍海已講・重誉上人・観厳大法師等あり。」
『東南院(院)務次第』覚樹の条「門弟に十一人あり。寛信・珍海・重誉・慧珍等の如きは皆な一時の英傑なり。」と、書かれていることからわかる。

覚樹にはここに出てくる寛信・珍海の他に覚鑁も学んでおり、多くの真言僧が彼に就いている。

それでは、珍海はどのような経緯で東大寺覚樹の元で出家したのだろうか。
ここでは、珍海の出自から考察してみたい。

『尊卑分脈』によると、珍海の父親は、従五位上内匠頭、絵師の藤原基光。
『後拾遺往生伝』によると、入道二品親王(大御室性信)が基光に命じて肖像画を描かせ、八大師(真言八祖?)に並べたとある。性信は三条天皇の息であり、仁和寺の僧侶であることから、基光の宮廷画家としての地位と、真言宗とのつながりがうかがえる。

また、「春日基光」とも呼ばれ、これは東大寺に居住していたことに由来するという。


すると、基光の息子珍海が出家を考える場合、縁の深い東大寺の覚樹の門下に入ったと考えるのはごく自然だと考えられるだろう。

ただ、ここではもう少し別の背景を見ていきたい。というのも、基光の家族で僧侶になったのは、珍海だけではないからだ。


まず、基光の兄弟で、珍海の叔父にあたる澄成(1040-1117-)。彼は醍醐寺の大谷に住んでいたことから、大谷阿闍梨と呼ばれる。そして、東寺定額僧であり、藤原忠実(関白・藤原氏長者)の護持僧を務めたという、当時の高名な僧侶だった。
また、定額僧を辞任した際、後任が勝覚(1057-1129 三宝院権僧正)であり、伝法灌頂も勝覚から受法している。

次に、基光の息子で珍海の兄にあたる維寛。彼は教行房と呼ばれ、勝覚権僧正の弟子である。

要するに、珍海の叔父と兄は醍醐寺の住僧であり、勝覚から受法しているという共通点がある。

【珍海系図】
 ーー基光ーーー維寛
 |    |
  ー澄成  ー珍海

次に、珍海の師僧について考察してゆきたい。
東大寺東南院の覚樹と醍醐寺三宝院の定海が、それぞれ顕教と密教の師僧になる。まず、この二人はどちらも右大臣源顕房の息子で、兄弟である。

さらに、定海は勝覚から受法しているが、定海と勝覚は従兄弟の関係になる。


【村上源氏系図】
村上天皇ー具平親王ー源師房ーー源俊房ーー勝覚
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              ー源顕房ーー定海
                  |
                   ー覚樹

【付法血脈】
勝覚ーー定海ー珍海
  |
   ー澄成
  |
   ー維寛


以上のように、血縁関係と師弟関係の両方がからみあっている事がわかる。
したがって、村上源氏出身の僧侶による寺院ネットワーク、という視点から珍海を見ることができるのではないか。

また、醍醐寺の隆盛、特に下醍醐の諸伽藍については、醍醐、村上、朱雀という三代の天皇の帰依によるところが大きい。
村上天皇の子孫である勝覚、定海は大檀越の子孫という関係にある。


次に、醍醐寺と東大寺東南院のつながり、について考察してみたい。
両寺院の関係は、開山聖宝理源大師にさかのぼる。                  

聖宝も元来東大寺三論宗の僧侶であり、師匠は願暁であった。願暁の師は勤操なので、空海と兄弟弟子の関係にあたる。真言宗としては観賢の弟子であった聖宝が願暁に学んだのは、関係の近さから自然だと思われる。また、聖宝は869年(貞観11)に三論宗僧として興福寺の維摩会に出仕している。

こうした聖宝であるが、874年に修禅の地として拠点を置いたのが笠取山で、これが醍醐寺の開創と伝えられている。

したがって、醍醐寺は元来、密教修行の道場だけれども、三論宗も兼学するという性格を持つようになった。931年(承平元)の太政官符によって、醍醐寺に年分度者が置かれるようになった時も、「三論宗一人、真言宗一人」という定員になっていた。

このように、醍醐寺は密教寺院であるとともに、三論宗寺院としての側面も持っていた。


次に、東大寺東南院は905年(延喜5)に聖宝によって建立され、三論宗の中心地となっていった。元々、聖宝は「三論宗・東大寺」を本宗・本寺としている事もあり、両寺院のつながりは続いていた。

永村眞先生『中世醍醐寺と三論宗』によると

 平安・鎌倉時代には、醍醐寺の定額僧・三綱・諸堂供僧に補任される「三論宗」徒の存在 が確認されるが、そのいずれもが「三論宗・東大寺」という表記がなされている点は看過 できない。つまり醍醐寺の寺職・学職に就く「三論宗」はいずれも東大寺を本宗としてお り、「三論宗・醍醐寺」という表記は見出し難いのである。この「三論宗」の表記につい て、義演准后は「奏上ニ真言・三論・法相宗ト載セタル事ハ、若受戒ト師主ニ付テ何宗ト 書之歟、愚推也」(「新」三綱部濫觴篇)として、「受戒」(実際は得度)の「師主」の 本宗を承けるものと推測しており、傾聴すべき古説である。また「東大寺」の表記も同様 に得度・受戒に際して属した本寺を掲げる原則があったと考えられる。

とあり、特に醍醐寺の三論宗が東大寺三論宗と、継続的に深い関係が維持されたことを伺わせる。


まとめ
以上、見てきたように、珍海の得度・受戒から東大寺での就学、醍醐寺での活動という経緯は、ただ本人の選択・偶然とは、とても言えない。

兄、叔父という血縁による醍醐寺との関係。
師僧間の血縁関係。
東大寺と醍醐寺との関係。

という重層的なネットワークの中で活動をしていた、と言える。


ここからは推測ではあるが、珍海が覚樹の元で出家した際、定海、維寛、澄成らの力添えがあったと考えたほうが自然であろうし、先々、醍醐寺の三論宗との関わりも考えた事だったのではないか。

また、定海の弟子には、元海、行海、覚海、珍海と「海」の字を使う僧侶が多い。覚樹の元で出家して珍海となったけれども、覚樹・定海両者の影響が伺えるのではないか。

つまり、珍海は出家・得度以前から醍醐寺とも深い関係があり、また、最初から両寺院に属するという立場で、覚樹の元で出家したのではないだろうか。

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