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三論宗の珍海は、真言宗の「法身説法」についてどう評価していたのか?

途中経過ですけど、興味あるところだと思いますので、メモっておきます。

法身というのは法(ダルマ)そのものである仏様のことです。
すると、一般的には物理法則のような存在で言葉がありません。
だから、法身は説法しません。

※菩薩に説法するのは報身仏
 一般の人に説法するのが応身仏(歴史上の釈尊含む)

しかし、弘法大師は「法身は説法する」と説かれたわけです。

で、三論宗でも平安初期には以上のような理由で否定的だったのですが、平安後期の珍海になるとどうか?というお話しです。

『三論玄疏文義要』でも前半は、上記のような説の解説になっているのですが、後半になると論調が変わります。
吉蔵の著作を引用し

仏陀の教=法輪を転ずる(説法の)主体
衆生の智=法輪を転ぜられる(説法の)客体

という関係性を提示し、仏陀と衆生には本来的に説法が成り立っているという観点から話を進めるのです。

『法華経』の火宅の喩えを引きます。
火事が発生した家から子供たちを非難させるために、親は「外に車があるよ!」と言って誘導します。
そこで、親は言葉としては語っていないけれども、必要な内容を子供に伝えている。

このように、「法身は説法しない」というのは、物理的な言語という観点からはただしいけれども、
法身はあまねく遍在している存在であり、「不思議作業」という形で働きかけている。

そうした観点から「法身は説法する」という説は成り立つ。

非常に端折って書くとこのような論になっています。

密教で修行を通じて体得することを、論理で説明するところが、真言と三論を兼学した時代を反映していますね
また、すべて三論宗の論書を典拠に真言宗の説を説明しているというのは、本当に学僧は凄いです。

※僕の誤読もありえますので、誰かに話したい方は『三論玄疏文義要』を当たってくださいね!

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