高句麗と三論宗

三論宗の日本伝来は625年、高句麗僧慧灌による、というところから
高句麗と三論宗の関係をピックアップしてみようと思います

まず、そもそも高句麗への仏教公伝は372年に前秦の苻堅が僧順道を派遣した事がはじまり、とあります。もちろん古代の話なので、実態はよくわかりませんが…

しかし、苻堅というと配下の呂光が西域を攻め、鳩摩羅什が捕虜になったという事が思い起こされますね。もちろん、鳩摩羅什が長安に来たのは、後秦・姚興の時で401年ですから、もちろん高句麗とは関係有りません
で、以後の鳩摩羅什は龍樹『中論』を含む仏典翻訳事業をスタートさせ、大乗仏教・中観の思想が東アジアに伝わります。

そして、高句麗と三論宗の関係ですが、5世紀に僧朗という僧侶が居ます。
彼は高句麗の遼東城(遼寧省瀋陽)出身です。はじめ、鳩摩羅什の学を学んだのですが(どこで学んだかは不明)後に摂山棲霞寺(南京)で三論を講じます。僧朗は梁の武帝を成実宗から三論宗に転向させたという逸話もあります。
僧朗の弟子は僧詮そして、法朗ー吉蔵(549-623)と直接つながりますので、非常に重要な人であり、吉蔵もよく著作に彼の説を引用します。

僧朗が出身地で鳩摩羅什の学を学んだのなら、高句麗に既にこの頃から三論宗があったのかな?とも思うのですが、よくわかりません。

次に、これは高句麗ではなく、百済出身なのですが慧均がいます。(いつか、記憶で高句麗出身と書いたと思いますが、誤りです。謹んで訂正致します)
吉蔵(549-623)とは兄弟弟子。百済→南京で学び、最後は故郷の百済に帰り執筆活動をしたようです。朝鮮半島まで三論宗が来ていると言う事で挙げました。
なお、慧均は従来吉蔵の著作と思われていたが、実は慧均のものだったというものが幾つかあり、非常に重要な人物です。
次は、ようやく日本と関係のあるところで、高句麗の僧侶恵慈。彼は595年に日本に帰化し百済の僧恵聡とともに聖徳太子の師として活躍しました。三論宗の学者で成実宗にも通じていたとあるのですが、最近の説では聖徳太子の思想は成実宗であったとされるので、実際には恵慈は成実宗を重視していたのかもしれません

最後にようやく慧灌です。
彼は、最初隋に入り、浙江省紹興の会稽山にある嘉祥寺にて吉蔵から三論宗を学びました。そして、625年高句麗王(栄留王?)から日本へ送られ、奈良の元興寺で三論を広めました。これが、三論宗の初伝とされます。
と言うことは、やはり恵慈は成実宗メインだったのでは?とか思ってしまいますが…

だいたい、目についたのはこんなところです。
いや〜、面白かった!でも、他にも有るとは思いますので、良かったら教えてくださいね!

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