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【ちっちゃいノート】「怪我人からのスタート」4年 長峰祐斗

大学4年間で人は大きく変われる


大学4年間のストーリーを文字に起こします。
このnoteを読んで多くの人に夢や希望を与えることが少しでもできたなら良いなと思っています。
最後まで読んでいただけたらありがたいです。

長峰祐斗の壮絶なる歴史


結果から話させていただくと自分はツエーゲン金沢という現在J2のチームに入団内定している。
そして 10月20日 現在、特別指定選手という形で8試合に出場し、奮闘している最中だ。


そんな自分の大学4年間は決して華やかなものではなかった。
大学入学前に全治1年という大怪我を負ってしまったのだ。
指定校推薦で大学へ入学することもあり、サッカー部に入ろうか最後の最後まで迷っていた。
サッカーだけが人生ではない。そう自分に言い聞かせて他の道を歩もうともしたが、サッカーから離れたくないという思いが強くあり入部することを決意した。
1年時ではスポーツ推薦組を除いた新入生のルーキーチームで活動した。もちろんサッカーをプレーすることはできないためみんなのボトルを入れたり、ボールの空気圧を測ったり、グランドの周りに散らばったボールを集めたり、試合の時には主審や副審をしたりと、マネージャーのようなことをこなして過ごしていた。そして毎週火曜と金曜には部活内でのリハビリがあり、休まず参加してできる範囲で身体を動かしていた。最初はジョギングからスタートしていき徐々に負荷のかけられるランニングへステップアップし目の前のトレーニングに一生懸命に取り組んだ。
約1年間めげずに練習に行きみんなのサポートとリハビリに通い続け、ようやく2月にプレーヤーとして復帰することができた。
待ちに待った大学サッカーをスタートすることのできる喜びに満ち溢れていた。
だが正直その時の自分の中にプロになりたいという気持ちはほぼ0に近かった。
その1つの理由としてはトップチームの人たちとは大きな差を感じていたためだ。応援席で実際に試合を見て技術的なうまさやスピード感など自分とのレベルの差を大きく感じた。そして1年というブランクはどうあがいても埋めることはできないと思っていたからだ。ましてや部員数の多い拓殖大学で自分は有名高校出身ではなく、有名な選手でもない本当に無名な選手であるため自信など全くなかった。
だが、復帰して1ヶ月後のチーム分けでBチームのところに自分の名前があった。何かの間違いだと思いマネージャーに確認しようとしたことを今でも鮮明に覚えている。
そこからBチームの練習に参加し体力的にも技術的にもついていくので精一杯であった。
サッカー選手としてほぼ白紙な状態であった自分は約半年間Bチームで過ごし、2年の9月に1年時のリハビリを真面目に取り組んでいたという人間性も加味されAチームへと上がることができたのだ。
嬉しい気持ち反面複雑な気持ちもあった。
1年間やってなかった自分がトップチームにいて良い存在なのか。そう自分に問いかけることも多かった。だが選んでもらったからには全力で頑張ると強く心に決め練習に取り組んだ。後期の開幕戦にベンチ入りしたものの出場はなく、結局大学2年時はその1試合しかメンバーに入ることはできずに終わってしまったのだ。
当時はまだ2年だからしょうがないなと自分を納得させてしまっていた。

3年時、ここで大きなターニングポイントを迎える。
関東リーグ開幕戦スタメン出場。
入学当初、自分の中ではありえないと思っていた関東リーグデビューをすることができたのだ。蛍光オレンジのユニホームに袖を通しプレーすることは憧れであったため信じられない気持ちと同時に喜びが爆発した。その試合1ゴール決めることができ、幸先の良いスタートを切ったのだ。
その後も順調に試合に出場し続け、最終的には年間で全試合に出場し2部リーグ2位という結果で史上2回目となる11年ぶりの1部リーグへと昇格することができたのだ。チーム一丸となり目標であった昇格を実現できたことは今後のサッカー人生においても忘れることのない出来事となった。
この1年間で再びプロサッカー選手というものを意識するようになった。これまで自分のプレーに自信を持つことができずにいたが試合に勝つことにより自信がつき、自分なら闘えると自信過剰になっていたがそう思うことができた。
勝つことにより仲間と喜びを共有できること、サッカーの楽しさ、そしてなによりもサッカーが大好きだという思いを再認識することができサッカーで上を目指したい。プロになりたい。という思いが一気に増した。
それからの日々はプロになるということを常に意識して過ごした。パス1本の質、トラップ1つの質、きつい時にどれだけ走れるか。細かいところまで意識して取り組むようにした。

3月に行われるDENSOカップの関東B・北信越選抜のメンバーにも選んでいただき、さらに自信を持つことができた。
これまでのサッカー人生でトレセンや選抜など選ばれたことがなかったため初めての経験で多くの上を目指している選手たちが集まっており、近くでたくさんの刺激を受けることができた。
とても良い経験になり、さらに上を目指したくなった。

4月に関東リーグが開幕し念願の一部リーグでプレーすることができた。やはりそこでも自分なら闘えると思うことができ、自信を持ってプレーし続けた。

そしてついにオファーをいただくことができ入団内定を勝ち取ることができた。

特別なことをしてきたわけでもないし、飛び抜けた才能があるわけでもない自分がなぜプロに内定することができたのか。
それは自分が自分を理解することができたからだと思っている。
自分のことを常に下手であると思っていて、下手なら練習をしなければいけないし、下手なら下手なりに努力しなければいけない。
そして常にもっともっと上手くなりたいという気持ちを持って過ごしている。
その考え、その取り組みが自分の中で成功したのではないかと思っている。

怪我により大学1年時を棒に振ってしまったがそこからでも遅くないし、出身校や過去のレッテルなど関係ないことを少しでも証明できたのではないかと思っている。

矢印の方向

ベクトルと矢印を少し違うものだと仮定する。
ミスをした時や良くない流れの時など人に使うベクトルではなく、これから書こうとしているのはどちらかと言ったら矢印の話である。
これは自分なりの考えであるため参考になるか分からないが綴りたいと思う。
正直言って自分は人と争うことが好きではない。
そんなんで勝負の世界でやっていけるのか。そう思う人もいるかもしれない。確かにそれは言う通りだ。同じポジションの選手がいる場合、試合に出れるのはもちろん1人である。その選手とのポジション争いに勝てなければ試合には出ることはできない。だが自分はそこで人と争うのではなく自分に矢印を向けることによってモチベーションを上げている。自分が良いプレーを続ければ必ず選んでもらえる。自分が最高のアピールをすれば必ずチャンスが回ってくると。ここでありがちなのがなかなかチャンスが回ってこなく、焦って途中で諦めてしまうことだ。
何事も途中で諦めてしまったら絶対に結果などついてこない。辛抱強くいる必要があるのだ。
この矢印の考えでこれまでのサッカー人生歩んできた。これが正解であるとは思わないが一意見として取り込んでもらえたら嬉しい。

毎日の朝練

ここで1番の大学生活でも思い出を振り返る。
自分は実家通いということもあり平日は朝の4時に起き7時から始まる練習に4年間通っている。
一般的な大学生活を送っていた場合こんな鬼畜な生活は送ることはなかっただろう。
別に早起きして通ってるから偉いというわけではないし、自分の選んだ道だからやり通すことが当たり前であると思っているためそこまできついと思ったことはなかった。この生活を送ったことは今後の人生で間違いなく忘れることのない思い出となった。
4年間で2回寝坊したり、電車で寝て乗り過ごしてしまったり、駅から学校が遠いため朝イチから自転車で坂の激しい道を登ったり、大雨の中濡れながら自転車で通ったりと大変な思いをたくさんした。だが今思えばそれも全て良い思い出だ。この毎日の鍛錬もあり大学4年間で人間として更に大きく成長することができたと思っている。

最後に

精神的にも身体的にも成長することができるこの大学4年間を決して無駄にしてはならない。
この4年間で自分は幼い頃からの夢であったプロサッカー選手を実現することができた。
誰にでもまだ叶えるチャンスはあると思う。
そのチャンスを必ずいかしてほしい。

完全にサッカー選手として遅咲き、いやまだ咲いていないと思っている自分は現状に満足することなくこれからも更なる高みを目指して頑張っていくので応援よろしくお願いします!

大井FC→坂戸ディプロマッツ→埼玉平成高校→拓殖大学


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