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目指すは「存在の庭師」

現在『TAKU LABO』という月刊マガジンで書いていること(研究していること)について、書いてみました。

20年間ずっとつきまとってくるライフテーマ?

ちょうど、約1年前にたまたま池田晶子という哲学の巫女(の本)と出会い、20年前くらいからずっと考えて続けてきた自分の中にある「あらゆる思い込みを見抜いて自由になるには?」ということにちゃんと向き合ってみよう、考えてみようと思い、哲学(池田晶子、プラントン…)、常識について(ここで言う常識は社会通念というよりも「本質」「本当のこと」という意味が近いです)、批評の神様小林秀雄、真善美の中で、特に「美とは何か」ということで、民藝の創始者柳宗悦、そして、池田晶子がやり残したことかもしれない(もしかしたらそっちに彼女の見出したいことに近いものがあったかもしれない)、心理学について臨床心理学者河合隼雄の本を読み進めて独自で研究(と言ってもただ本を読んで、それについて考えて、エッセイ(試論)を書いていただけですが)していたのですが、その中で、最近、中沢新一という人類学者を知りました。

「こころ」の探究へ

知ったきっかけは、『仏教が好き!』という河合隼雄氏と中沢新一氏の対談本です。臨床心理学者でありながら、文化庁長官も務めるなど、日本文化の発展に多大なる貢献をした河合先生は、臨床心理学者として、「こころ」を研究をする中で、特に日本人の「こころ」を読み解くには、仏教を学ぶ必要があると感じ、華厳教を中心に仏教について研究を始めました。彼の書物を読んだり、彼の考えを聞けば、その経緯は必然であると感じられますが、心理学者がなぜ宗教学? という風になるところを河合先生は探究を続けていきます。心理学者でありながら、非常に豊富な知識があり、他の学問のことにも非常に長けている印象がありますが、でも、それも結局は日本人の「こころ」を知りたいというただ一つの目的を追っているうちにそうなった、のではないかと思います。そもそも、もともと河合先生は数学の教師であって、そこから学生の悩みの相談を受けるようになり、これは本気で取り組まなければということで、ユング心理学を学ぶ道へ行くという非常にユニークな経歴を持つ方でもあります。

一方、中沢先生も人類学者とはなっていますが、宗教学、精神分析学、数学、地層学・・・と非常に幅広い学問に精通しています。そして、ただ文献研究をするだけではなく、自分自身がチベットへ行ってチベットの僧に弟子入りして、仏教を学ぶなど、この先生も非常にユニークな人です。その人が、南方熊楠の研究などを通して、華厳教の可能性を再発見し、今、華厳教をベースとした「レンマ学」という新しい学問の構築を目指しています

「ロゴス」と「レンマ」

わりと論理的に考えることが好きな僕としては、哲学的な考え方、まさにロゴス的な知性というのは非常に肌に合うのですが、どうしても、その思考方法では超えられないような壁を感じる。たった1年間ただ本を読んだだけで、哲学の何がわかるのか、というところはありますが、それでも、何か違和感を感じる。そもそも、今、目の前で起こっていることを論理的に表現する、言い換えると、言語で表現することの限界、二元論で考えることの限界、因果論で考えることの限界というのを感じます。これは別に専門的に勉強していない人でも日々感じていることではないでしょうか。

特に日本人である僕たちは、YESとNOだけで答えることを苦手としています。だって、そこには、YESとNOのどちらかでは言えないこと、YESとNOの間にある無限にあるもの、グラデーションのようなものがあることを僕たちは直感的に知っているのです。だから、西洋化のためにロゴスで考えなければならない、そういったソフトを使う社会になっているのに、そのOSはそうではないというところにとても大きな矛盾を抱えているのではないかと感じるのです。じゃあ、そのOSはどうなっているかというと、日本人であれば、やはり仏教的なものがベースになっているのではないかと。現代の日本に生きている人たちに、あなたの宗教は何ですか? と尋ねても、ほとんどの人が無宗教と答えますが、でも、その無宗教の無とは、仏教の無ではないか、と指摘する人もいて、それは非常に示唆に富んでいるなと思います。実は無意識の中で、僕たちは無=仏教をベースにしているのではないかと。そう考えると、社会の表面で動いているソフトであるロゴスと、OSは仏教という二面性があることによって、どこか矛盾を感じてしまう。もう少し違う言い方をすると、このソフトだけでは表現できない何かがある。OSをフルに使いこなせていない感覚がある。そういう感覚を日本人は特に持っていて、それが生きづらさにつながっているのではないかと思うのです。

そういうことを考えている中で、中沢先生が提唱するレンマ学というものと出会って、まさに僕が知りたいのは、レンマ的知性のことではないか。なので、その研究に取り組むことにしました。そもそもまだそのレンマ学というのも確固たる学問になっているわけではなく、それこそ中沢先生が今まさにチャレンジしている最中のものなので、それを学ぶということはどういうことなのか、というところから考えて行く必要性があるのではないかと思うのですが、でも、目指すべき航路が見つかったのはとても大きいなと思います(ただ、それを学ぶには何年、何十年…と、どれくらいの月日が必要なのかはわかりませんが。そもそも学問として立ち上がるのかどうか…)。

そもそも、レンマというのは何かというと、中沢先生の『レンマ学』から引用させていただくと、

古代ギリシャでは理性という言葉で、二つの意味が同時に言われていた。一つは今日でも認められているこの言葉の通常の用法、すなわち「事物をとりまとめて言説化する」という意味であるが、そこにかつてはもう一つ別の意味が加わっていた。それは「直観によって全体をまるごと把握し表現する」という意味である。前者は普通に「ロゴス」と呼ばれたが、後者には「レンマ」という別の呼び方が与えられた。理性には「ロゴス的な知性」と「レンマ的な知性」の二つの知性が共存しているのである。
(『レンマ学』中沢新一)

もともとは理性という中に、二つの意味があったというところが非常に興味深いですね。でも、西洋では、前者のロゴスをベースに世界を発展させてきた。でも、実は理性にはロゴスとレンマというものが共存していた。そして、そのレンマの方は東洋の思想、特に仏教の方に取り込まれることになる。それを中沢先生は、華厳教の中に体系化されたものを見出し、それを現代に復活させて、それをベースに色々な学問の再構築を行う必要性を説いているのです。

まだレンマ学が完成していない中では、これは僕の直観にもなりますが、そういった学問の必要性、考え方というか、考え方をも包摂するような自然の原理というのもを活用する、ある意味では思い出す必要性があるのではと感じます。この世の中の閉塞感を単純にロゴスによるものと断定することはできませんが、でも、実際に気候変動などを肌で感じていると、単純な因果関係によってそれを解決できるとは到底思えません。それはただ環境問題の中で収まるようなものではなく、あらゆる要素が絡んでくるものだからです。そんな時にロゴス的な知性だけではなく、レンマ的な知性で、世界を捉えることが必要なのではないかと思うのです。そういった考え方が、すでに華厳教の中に存在しており、「華厳的進化」なんていう言葉も中沢先生の中から出てきておりますが、日本人であれば、縁なんて言葉は日常的に使う言葉ですし、足元を見てみると、我々はその大地の上に立っていることがわかります。そういうことを今一度見直して、色々なものを再構築していくと、新しい世界が開けて行くのではないでしょうか

「レンマ的知性」を手に入れるために

ただ、言葉で言うのは簡単ですが、じゃあ、実践となった時に、中沢先生のようにみんなチベットへ行けばいいのか、というとそういうことでもなく、中沢先生は「レンマ学」という形、つまりは科学(サイエンス)として、それを広めようとしているのです。それが列記とした学問になれば、それを学び、進化させていく人たちもこれから現れてくるのではないでしょうか。

また、学問としてもまだ成立してないし、そして、学問になったとしても、それを専門的に学ぶことは難しいという人がほとんどだと思います。しかし『未来のルーシー 人間は動物にも植物にもなれる』という中沢先生と霊長類学者山極寿一先生との対談本の中で、我々がどう関わっていけるのかということに、非常に示唆に富んだ面白い対話があったので、それを引用したいと思います。

山極 似たような話ですが、しばしば「生きる意味」ということが言われます。今西さんの自然観だと、「生きる意味」なんてないでしょう。自然というのは意味を持たないですから。西洋的な、因果論的に人間の行為や自然の現象を読み解こうとする思考の結果、初めて「意味」というものが出てきます。いま多くの人が「生きる意味」が無いと困っているわけです。そんなものは探さないほうがいいと私は思います。いま中沢さんがおっしゃった「秋深し 隣は何を する人ぞ」というのはまさに意味を消しているのですね。お互いに感じあって、みんなで共有し合うことの深さ、楽しさというものが、まさに生そのものであるということ。そこにはお互いに干渉しあわないけれど、お互いの存在を感じあえるような共存が語られています。
(『未来のルーシー 人間は動物にも植物にもなれる』中沢新一・山極寿一)

今西さんというのは、生態学者今西錦司先生のことです。二人とも今西先生には多大な影響を受けているようです。そして、非常に哲学的な話になってくるのですが、「生きる意味」について。ここでは、「生きる意味」が無いと言っているわけですが、そして、それに対応して、松尾芭蕉の俳句を照らし合わせています。
「『秋深し 隣は何を する人ぞ』というのはまさに意味を消しているのですね。お互いに感じあって、みんなで共有し合うことの深さ、楽しさというものが、まさに生そのものであるということ。そこにはお互いに干渉しあわないけれど、お互いの存在を感じあえるような共存が語られています。」
この視点は非常に面白いなと思います、個人的にはとてもしっくりくる感じがあります。「生きる意味」という概念はロゴス(因果論)によって発生する。しかし、日本人のベースにあるのは、ロゴス的知性ではなく、レンマ的知性である。そうなった時に、「生きる意味」を探そうとしても見つからないのはあたりまえ。そして、そもそも本当はなくていい。我々は、ロゴスではなく、レンマ的知性を持っているのだから。それを松尾芭蕉の俳句で表現しているところが非常に面白いですね。でも、この俳句を読むとたしかにそれを感じる。昔の人はそう生きていたことをとてもよく感じることができますね。どこか懐かしさすら感じます。でも、それが僕たちの根底にあるもので、生きる意味は無いと言ってしまっても過言ではない。むしろ、そう言い切ってロゴスの呪縛から解放された方が、僕たちは生きやすいのではないでしょうか。この文章を読んでいると、現代の生きづらさの意味がわかったような気がします。

僕たちの中には脈々とそういう思想が受け継がれてきている。思想と言うと、ピンとこない人もいるかもしれませんが、それこそDNAが受け継がれてきている。それはただの比喩ではなく、僕たちの祖先と言われる、ホモサピエンス・サピエンスからDNAはほとんど変わっていない。そう考えると、理性がロゴスとレンマにわかれてしまう前からあるものを僕たちは最初から持っているのです。それは中沢氏が人類学者として、人類の誕生から遡って調査をする中でも明らかになってきています。ロゴスによって大きく科学は発展してきましたが、それによる限界が近づいている今、僕たちは忘れ去ってしまっていたレンマ的知性をもう一度思い出して、それも活用して生きる道を模索する必要があるのではないでしょうか。なぜなら僕たちは祖先からほとんど何も変わってはいないのです。科学は発展しても、人間自体はほとんど変化がない。人間自体が進化しないのであれば、僕たちはあるもので対応するしかありません。まだ使っていないもの、忘れてしまっているものがあるのであれば、それを駆使して解決策を見出して行く必要があるのではないでしょうか。

そして、日本人はすでに江戸時代のような循環型社会をつくったことがあり、古くから俳句にもあたりまえに使われているようなレンマ的知性を持っているのです。そういう意味では、古典を振り返るというのもレンマ的知性を呼び起こすきっかけになるかもしれません。まだ読んではいませんが、河合先生は『紫マンダラ』という紫式部の『源氏物語』の中にマンダラ(曼荼羅)の構造を見出しています。きっとそういうものが日本の古典の中には多く含まれているのではないでしょうか。

だいぶ長くなってしまいましたが、現在はこういったことを研究しているということで、2023年の振り返りでした。

2024年へ向けた抱負というわけではないですが、こういうことを目指していきたいなということで、中沢先生の本の一節を。

仏教エコロジーの思想を象徴するのが、この「インドラの網」のイメージである。人間は動植物を牧人として見守るだけでなく、インドラの網の修繕に励む「存在の庭師」をめざす
(『今日のミトロジー』中沢新一)

2024年、目指すは「庭師」!!(笑)

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