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人はつながっている

どうして自分とは全く関係ない、縁もゆかりもない人が悲しんでいる姿を見て、僕たちは一緒に悲しむことができるのだろうか。その人の気持ちに寄り添うことができるのだろうか。ただ、テレビの中だけでしか出会うことができない人、文字の中でしか出会わない人。一生リアルに会うことはない。本当に存在しているのかもわからない人。僕たちはそんな人とつながることができる。

そうきっと僕たちはどこかでつながっているのだろう。そうとでも思わないと、知らない誰かに共感するというのは、難しいのではないかと思う。確かに人間にはそういった機能がついているのかもしれない。それは生きるため、生き残るために。でも、それ以上の何かがあるのではないだろうか。単なる機能とかそう言ったものではなく、もっともっと深いところで人間同士はつながっているのではないだろうか。

そういうことを表面的に説明するために、そう言った共感とかそういう言葉があるだけで、目には見えなくても、物理的につながっているのかもしれない。目に見えないのに物理的というのも矛盾しているように聞こえるかもしれないけれども、でも、世の中には見えないものもたくさんある。見えない何かで僕たちはつながっているのかもしれない。

だから、世界を平和になって欲しいと思うのかもしれない。本当に世界の裏側に誰かが住んでいるなんて、外の国へいったことがない人はどうやって信じればいいのだろうか。僕だって日本の裏側にある南米には行ったことはない。でも、それを信じることができる。

もしかしたら、そこに行ってみたら人はいないかもしれないし、そもそも、飛行機はそこへ行くふりをして、違うところへ行っているのかもしれない。そんなことはないのだろうけれども、でも、僕たちは小さい頃から、地球は丸いよ、世界の裏側にも国があるんだよ、そう言われて育ってきて、それを信じている。

それを信じるかどうか、信じられるかどうかなんてその人次第なのに。僕たちはみんなそれを信じることができる。それはただ知識として知っているというのとはちょっと違うんじゃないかな、って思ったりもする。

僕たちは直感的に、そうやって地球の裏側にも世界があること、そこに住んでいる人を感じているのではないだろうか。感じる力を持っているのではないだろうか。それはきっとどこかでつながっているからではないだろうか。そんなことをテレビで誰かが悲しんでいるニュースを見て、自分も悲しくなった時にふと思った。

確かに、その人よりも自分は幸運に恵まれているかもしれないけれども、でも、目の前のことで精一杯なのに、誰かに共感する力がある。誰かの悲しみに寄り添うことができる。たとえ、それが相手には届かなかったとして、相手には知る由はなかったとしても、人はそうすることができる。たとえ、自分になにもメリットや利益がないかもしれないのに、それをすることができる。

それってすごいなと思う。単なる感受性だとか、そういう言葉で片付けられることではなく、僕たちは本当につながっているのではないかと思うのだ。

世界のどこかで悲しんでいる人たちがいれば、寄り添える力
世界のどこかで楽しんでいる人たちがいれば、一緒に楽しめる力

人にはそういう力、そういうつながりがあって、世界は回っているのではないかと思うのだ。
だから、今、自分がしていることというのはきっと世界とつながっているのだ。きっと自分が悲しんでいる時に、それに寄り添ってくれる人がいる。
自分が楽しんでいるときに、一緒に楽しんでくれる人がいる。

自分と世界、そして、人とのつながりを感じることができれば、ちょっとだけ心が楽になる。
一人ではない。つながっているのだ。
そういう感覚を信じて、生きていきたいなと思う。

世界平和とか、何か大きなことにピンとこない人も多いかもしれないけれども、みんながつながっていて、言葉にはできなくても感じていて、だから、人はやっぱり平和を求めているし、他人の幸せ、それも会ったこともない人の幸せも望んでいるのではないかと思う。

それを感じならが今日も生きていきたい。きっと誰かが自分の幸せを想っていてくれるし、そして、自分も誰かの幸せや平和を想っているのだと。

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