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正義心と理性

最近の習慣の一つが英語の勉強だ。聞き取りが苦手だなと思うので英語のラジオであったりニュースを見るようにしている。
そんな中、アメリカのニュースでここ数日特にホットな話題がある。

ミネソタ州ミネアポリスで黒人の男性が白人の警察官による拘束の末、死亡した。その時の映像を見たが、被害者の男性の首を警察官が足で押さえつけていた。それが原因で死亡したというのだから、行きすぎた行為であり関係した警察官たちは糾弾されるべきだ。

しかし、私が気になっているのは事件そのものではなく、事件の後に巻き起こった抗議運動だ。事件が発生したミネアポリスをはじめとしてニューヨークやアトランタなど各都市で、被害者の死を悼み加害者である警察への抗議運動が行われている。

抗議運動では警察署や公共施設、報道機関や一般の商店までもが破壊の対象となり、デモ行進が過ぎ去った後の街で消化活動、復旧活動を行う人々の姿がテレビに映し出された。

確かに抗議運動自体の趣旨は正しいのかもしれない。
加害者たちを糾弾し、未だなくならない人種差別の撤廃を訴えることは正義の心から来るのだろう。
ただ、行きすぎた行為は自分たちの主張の正当性を揺るがしかねない。

施設の破壊、一般商店を襲って略奪を行うことは明白な犯罪だ。
そのような行為に手を染めた時点で彼らは加害者の警察官たちと同じ犯罪者に成り果てた。
もちろん破壊行為を行うような輩は抗議運動に参加しているほんの一部の人々に過ぎず、大多数の人々は自分の理性を保ちながら運動に参加しているはずだ。

一部の行き過ぎた行為が集団そのものを悪にしてしまうという例は事欠かない。
抗議運動にしてもそうだし、政治家の人格否定や中傷行為に成り果てている政権批判も同じだ。暴走して他者に迷惑をかける人気アニメのファンも本質は同じかもしれない。

正義は無法の免罪符とはならない。社会の規範、法を犯した時点で正義は正義ではなくなってしまう。理性を保つ自身がない人間はそもそも抗議運動に参加するべきではないのだ。

だが実際、社会を変えるような運動を引き起こせる人と無法に走ってしまう人の本質は紙一重で、いつ両者が入れ替わってもおかしくない。
抗議運動に参加しようと志す、強い意志のある人にこそ自分を律し、理性を保つということを忘れないでもらいたいものだ。

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