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07. 歩けよ、敷かれたレールを。噛みしめろ。

敷かれたレール最高だよ。はんぱねぇよ。

僕が10代, 20代の頃は「敷かれたレールを歩くだけの人生は嫌だ」的な考えは当然あったんだけども、30歳を超えて子どもも産まれて以降はどうも「敷かれたレール最高か?」みたいに思うことも大変多くなりまして。

これは決して「ぬるま湯最高」という意味ではなく、「レールを敷いてくれた人々への感謝」みたいな気持ちが大部分を占めている。
現代の先進国ではざっくり言うと「生誕→教育→入社→あとはお好きにどうぞ(なお電気水道ガス医療は適度に提供します)」みたいなレールになっているんだけども、社会人を何年もやっていると「このレールを用意するのがどれだけ困難で時間のかかる作業なのか」ということが身にしみて分かるようになり、好き勝手に「敷かれたレールの上を歩きたくない」とか「そもそもレールがボロボロだろ」「レールはクソだ」的な主張をしたくない気持ちが強くなっている。
※こんな生温い感想を言えるのは僕がいま現在恵まれている環境にいるからに他ならないのだけど、それは一旦置いておく。

もうね、ほんとしんどいよ。全員を納得させながら何かを実行するというのは。しかも「生誕→教育→入社」のレールはほぼ全員が使うレールだからさ。そりゃもう各所からボコボコにされるわけよ。出産の死亡率が極めて低く、識字率が極めて高い日本ですらボコボコに言われるからね。僕が医者や先生、公務員とかだったらもう泣いちゃう。当事者じゃなくても感情移入で泣いちゃう(30過ぎると異常に涙もろくなる)

まぁそんな感じで「敷かれたレール」にはものすごい努力が詰まってるんだなぁという話でございます。だから必ずレールの上を歩けと言っているわけではないけども、歩くんだったらもうちょい噛み締めながら歩きたいと思うのでした。



話は変わり、最近僕の中には「なんでこんなんで経済は回っているんだろう」という感情があって、この感情がレールへの感謝や尊敬を更に加速させている気がする。(ちょっと話題が切り替わるけど許してください。あとで戻ってきます)

飲食や医療、各種インフラ業界は生きていく上で必要不可欠だから需要や売上が発生するのは納得できるんだけど、例えば「業務効率化システム」に需要があって売上が発生する理由が正直よくわからない。だって業務を効率化しなくても生きていけるじゃん。衣食住揃ってれば生きていけるじゃん。なんで業務効率化しようとしてんのさ。何をそんなに急いでるのさ。しかもその業務効率化しようとしてる会社が「僕らは人と人を繋ぎ 世界のナントカをほにゃほにゃして幸せにします」とか意味わかんないこと言ってんの。でも会社存続してるしみんなに給料配って成り立ってるんだよね。まじで意味わからん。

たぶん答えは「資本主義だから/それが経済だから」が一番完結で近いと思ってるんだけど、要は「売上を上げたらそのぶん自分に還元される」という仕組みがあるから「世界のナントカをほにゃほにゃする会社」も業務効率化に前向きになって、業務効率化システムに需要が発生する。
こんな雰囲気の需要が連鎖して世界には「よく考えれば必要無さそうだけど、なぜか需要が発生しているモノやサービス」がたくさん溢れている。もうこれが本当にすごい。資本主義すごい。経済ってすごい。そしてこの資本主義経済の仕組みこそが「先人たちが頑張って敷いてくれたレール」の一つ…いやむしろ「レールを敷く大地」に近い存在であって、この大地があるから「生誕→教育→入社」のレールを敷くことが可能になり、それを歩けば経済に組み込まれて何かしらの形で誰かの需要を満たし、お給料を得ることができる仕組みになってる。そして「生誕→教育→入社」のテンプレレールが嫌だったら別のレールを敷くことができる。なぜなら大地があるから。資本主義経済によって世の中に多種多様な需要が眠っているからこそ、自由にレールを敷くことができる。まじではんぱない。

これを実現するのは本当に困難だらけだと思うわけです。めっちゃ頑張ったのに国の方針で成果を没収されたとか、そもそも身分が低いから教育を受けられないとか、戦争で全部リセットされたとか、そういう理不尽を乗り越えてなんとか成り立っているわけです。泣けてくる。

だって「業務効率化システム」に需要が発生して、それを満たしていればご飯食べられるって奇跡でしょ。
同じく「フォトグラファー」が職業として成立してるのって結構奇跡でしょ。

フォトグラファーにきれいな写真を撮ってもらう→それが売り上げ増につながる→自身への給与や評価に反映される→その給与で買える何かが世の中にたくさんある→何かを買う→「何か」を作った人に給料が発生する→以下ループ

これが成り立ってるからフォトグラファーという仕事があるのであって、矢印(→)のどれか一つでも欠けてたらフォトグラファーが存在しないわけです。どんだけすごいんだ資本主義経済。

もちろん環境によって「僕の場合はレールなんて無かったです」とか「気づいたら歩いていたのは地獄行きのレールでした」みたいなことも全然あるから、その上で「僕は敷かれたレールを歩くのはやめる」と言うのは非常に正しいと思うけども、レールの価値や経済のありがたみを理解せずにボロカス言うのはちょっと違うのかなぁと。
自分で新たな道を歩くのであれば、いま足元にあるレール/大地に一定の敬意を払いつつ、「今までありがとう。あなたのおかげで違うレールを敷いて歩くことができます。これからもお世話になります。そっちも大変だろうけど俺も頑張るからよろしく。」くらいの気持ちを持ちたいものである。

いや分かってるよ、辛い人は本当に辛くて現代社会が憎いから「綺麗事抜かすなボケ」って意見もあるでしょうそりゃ。
でも僕が言いたかったのは「どういう道であれ僕らは先人が築いた資本主義経済に乗っかるしか無いし、その恩恵を知らず知らずのうちに享受しているんだ」ということでございます。レールには色んな種類があるのかもしれないけど、資本主義経済の大地だけは永遠にお世話になるしかないのです。


そんなこんなで今日もサラリーマンをしつつnoteを書くのでした。
僕はなぜnoteを書くのか。なぜnoteという会社が存在していて会社が成り立っているのか。そりゃ大地があるからよ。自由にレールを敷けるからよ。はんぱねぇ。ビバ資本主義。


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今日の話と結構同じこと言ってるかも。


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