ごっこ遊びがおもしろくない

 「学びは真似から」なんていう言葉はよく知られていると思います。子どもたちは自ら学力があり、それは無意識レベルで行われています。大人は勉強しようと思って勉強をしますが子どもはそのようなことを考えて意識して学ぼうなんて思ってはいないように感じます。それが遊びの正体ではないかと考えたりもします。

 特に真似する遊びは面白いようで、ままごとセットがあるとお父さんになったりお母さんになったり(たまにペットの犬にもなったり)して彼らの遊びのストーリーが展開されていきます。その様子を観察していると彼らがどのくらい普段の何気ない日常を自分の中に取り込んでいるかということがわかるのではないでしょうか。彼らはそうやって自分じゃない誰かになることによって違う人の目から世界を眺め、世界にアプローチしていき、そのフィードバックを取り込んでいるのだと思います。

 ままごとに焦点を当てていますが、これは「ままごと」だけに限った話ではありません。廃材でものを作っているときも、積み木で何かを作っているときも子どもの世界はトイレットペーパーの芯をそれとしてとらえているのではなく、四角い木片をそれとしてとらえているのではなくときには望遠鏡や、ときには小さな人形を寝かすためのフカフカのベッドかもしれません。その彼らにそう見せている世界は彼らの体験の豊かさから来るとも言えるでしょう。これらのことから、以前の私は子どもは「放っておいても勝手に遊べるものだ」「下手に手を出さない方が、より彼らの遊びの邪魔にならないのではないか」と思っていました。しかし、今はそうは思わなくなってきている。なぜなら、彼らには遊びを支えるための世界の豊かさが貧しくなっていると感じるからです。

 先程も述べたようにままごとは豊かな体験がその面白さを支えています。稲作などの第一次産業、手仕事などの第二次産業が盛んだったころや商店であっても町の小規模な個人経営が生活とともに商いを行っていた頃は子どもと大人の世界が今よりも近くにあり、子どもは大人の仕事や活動を観察することができました。運が良ければ手伝いができたこともあるかもしれません。それに、自分の家ではない家庭との境界もいまよりも曖昧でコミュニティの中でさまざまな体験をすることができました。一方、今はどうでしょうか。ほとんどの大人は会社勤めになり、仕事といえばもっぱらPCを用いた作業になりました。PCの作業は子どもからみて理解できません見ていて退屈です(大人である私でも難しい数式を用いた表計算など到底理解できません)。プライバシーや訴訟リスクの観点から家庭の境界線はますますはっきりとしてきたので遊びに行けるのは両親ともに仲の良い特定の家庭に限定されます。ましてや子どもだけで遊びに出るのは以前に比べより難しくなってきました。そのような中でどのような体験ができるというのでしょうか。体験が乏しくなったのは明らかです。

 子どものごっこ遊びを見るとアニメや特撮モノを主題としたごっこ遊びも多いことに気が付きます。これにははっきりとした理由があるように思えます。彼らは共通の認識をもって遊びたいのです。以前まではコミュニティのなかに共通の遊びのテーマが散りばめられており、それらを子どもたちは当然として〇〇ごっことすることができました。しかし、現代では共通事項といえばもうTVにでてくるものくらいしかなくなってきているのではないでしょうか。

 テレビを子どもに見せる、見せないと言った論争はいろいろな意見があると思いますが、今回の視点から見ると見せる見せないというよりもむしろ、個人の体験や共通の体験が少ないといった問題が見えてくるのではないでしょうか。以上のことから子どもは放っておいても勝手に遊べるものだという言説は本当に現代の子どもにも当てはめることができるのかといったことを考える視点として少しは役立つのではないかと考えてみたりもしました。
皆さんはこの点についてどのようなことを考えるでしょうか

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