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あらゆる分野に応用された「波」:イングリッド・ドブシー

※この記事は2022年3月13日にstand.fmで放送した内容を文字に起こしたものだ。


今回紹介するのは20世紀から活躍しているベルギー出身の数学者イングリッド・ドブシーについてだ。
あまり聞いたことない名前だと思うが、この人の残した功績は現在の僕らの生活も支えているようなものだ。

イングリット・ドブシーは1954年ベルギー東部にある小さな炭鉱の町で生まれた。父親は炭鉱会社に務める土木技術者、母親は経済学や犯罪学の学士号を持った学のある人だった。
幼い頃は機織りや陶芸、機械修理が好きで、数学への関心も深かったと言われている。大学院時代は量子力学の研究に力を入れていて、特に量子の運動を関数として表すなど、解析にまつわる論文をいつくか発表している。

そんなドブシーの研究の中で最も大きな影響を与えたのが、「ドブシー・ウェーブレットの研究」だ。ウェーブレットというのは簡単にいうと、信号や画像を効率的に表すのに使える波の形のことで、複雑な関数を単純な成分の和として表す関数として知られている。
よく病院の心電図とか音声編集をするときに不規則なギザギザの形をした波を見ることがあるだろう。あれがドブシー・ウェーブレットだ。このスタンドFMのロゴマークにも波の形をしたマークが使われているが、これもおそらくウェーブレットの一種がモチーフになっている。

起源は19世紀のフランスの数学者ジョゼフ・フーリエという人物の研究に由来していて、彼の考案したフーリエ級数という方法によって、音波をはじめとする周期が伴う関数をサインとコサインの関数が無限個集まった和として表せるようになる。
その後1909年に、ハンガリーの数学者アルフレド・ハールという人物によって「ウェーブレット」の概念が初めて導入されたのだ。1980年代にもウェーブレットの発展は続いていて、さまざまな形の信号を処理するためのウェーブレットの手法がいろいろと考え出されていた。ドブシーによる研究もその地続きにある。

彼女がウェーブレットの研究成果を初めて公表したのは1987年。ここで初めて「ドブシー・ウェーブレット」という新しい理論を展開する。
このウェーブレットが特に優れていたのは、デジタルフィルタリングというよく知られた方法を使って、コンピュータ上で簡単に再現できたことだ。

彼女の考案したウェーブレットは、ひとつひとつの曲線が不規則でギザギザとしているのだが、こうしたギザギザの曲線の集合を足し合わせることによって、音波や地震波をはじめとする波の特徴を効率的に捉える。この成果を論文で発表し、多くの技術者たちがこのアイデアをデジタル信号処理に応用できるようになったのだ。

最も有名な応用例はデジタル画像の圧縮である。例えばアメリカのFBIやロスアラモス研究所などが、ドブシー・ウェーブレットを利用して指紋のデジタル保存と照合の方法を開発している。これにより、それまでおよそ二億件もあった指紋データベースを一気に圧縮して、保存容量を93%も節約したと言われている。
他にも、生物医学の分野では心電図や脳波、MRIなどの信号処理に利用されたり、工学の分野では、航空機に翼の周囲にできる空気の流れや原子炉での帯電したガスの通り道などの解析。地質学では岩石の層を通って伝わる音波をウェーブレットに基づく画像にした物質組成の分析。映像制作ではコンピュータ動画によるアニメでウェーブレットが使われ、音声編集ではウェーブレットを使って不完全な録音から雑音を特定して取り除くことができる。そして画像処理の分野においては、JPEG形式のファイルとしてデジタル画像を保存する新しい規格が作られることにも貢献した。

こんな感じでドブシー・ウェーブレットというのは、僕らが想像する以上にありとあらゆる分野で応用されているのだ。今こうして誰もがラジオ放送できるようになったのも、音声編集の技術が日進月歩で進化してきたからで、その中でもドブシーによるウェーブレットの研究が特に大きな影響を与えているということだ。

こういう技術の基礎が作られる歴史が辿れるのも数学史の面白さなので、興味があったらぜひ他にも調べてみてほしい。

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