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価値ある数学古典を後世に残すために:ヒュパティア

※この記事は2022年2月14日にstand.fmで放送した内容を文字に起こしたものだ。


数学はこれまで、理論や定理を何の前触れもなく、唐突に教わってきたので面白さが見出しにくかったが、歴史が過去のストーリーを伝えていくのと同じように、数学も理論や定理がどういう経緯で完成されていったのか?そのストーリーだけでも知ることができたら、より親しみやすくなると思っている。
その足掛かりとして、この解説が役に立てば嬉しい。

今回紹介するのは、ギリシアの数学者ヒュパティアという人物についてだ。現時点で、数学を教えたり著述をした人として知られている中では最初の女性数学者になる。

彼女は4世紀の後半、エジプトのアレクサンドリアで生まれる。彼女が生まれる7世紀前にアレクサンドロス大王がエジプトを征服した時、王はナイル川の河口に大都市を建設して、世界最大の学問の中心地となるべき都市を考えた。
その後、後継者のプトレマイオス一世は、アレクサンドリアにムセイオンという大学を建てて、各国の学者が集まって新しい学説を議論したり、教えしたりするための学び舎を提供した。
このアレクサンドリアで暮らして、研究したギリシアの数学者が、のちに重要な法則や定理をたくさん発見していくのだ。

ヒュパティアは、そんなアレクサンドリアで住んでいた市民の一人で、当時ムセイオンの数学と天文学の教授だった父親に、読み書きや数学、科学、演説の仕方まで教わっていった。
ヒュパティアが幼い頃に母親は亡くなってしまっていて、父親は、一人娘だったヒュパティアを「完璧な」人間にしたいという理念のもと、彼女に体操やランニング、乗馬、泳ぎの練習をいつもさせていたという。

今考えると、「完璧な人間なんて目指す必要はない」と思ってしまうが、当時の哲学は個人の幸せのあり方について考えられるような段階までは発達してなかったので、人が完璧の目指そうとする考えは珍しくもなかったのかもしれない。

ヒュパティアは勉強と運動の両立でさぞ大変だった思うが、唯一マシだったのは、娘のために考えた運動メニューを父親も一緒にやっていたことだ。
ただ指図されるだけでは辛くなるが、父も一緒にやってくれるのであれば精神的にはかなり楽だろう。そうした責任感のある父親の教育は、後のヒュパティアの人格を大きく育てていくことになる。

ヒュパティアが後世に残した最も大きな功績、それが「数学古典の注釈」だ。
基本的に本というのは、その時代にわかっている最先端の知識を教えているものだ。逆にいうと、時代が過ぎれば過ぎるほど、本の知識は古くなってしまう。
例えば、僕らが学生時代当たり前に使っていた歴史の教科書などは、年を経るたびに必ずどこかのタイミングで史実のアップデートがされる。そうしないと、古い知識しかないまま物事に触れていくので、議論や資料に当たる際に支障が出てしまうからだ。

新しい事実が分かったら、その分野の知識はアップデートするというのが学問を学ぶ上では非常に重要になるのだ。注釈の大きな意義はまさにそこにある。
ヒュパティアは、この注釈の作業を父親と共に行い、当時の大学で教科書として使われていたエウスレイデスの『原論』や、ディオファントスの『数論』、アポロニウスの『円錐曲線論』など、さまざまな数学古典に対して注釈を加えていった。今では、こうして注釈を施して改訂版を作る作業を「編著」と呼ぶ。
特に、アポロニウスの『円錐曲線論』の編著では、3つの重要な曲線図形である楕円、放物線、双曲線が、物理的も応用ができるということを示している。

例えば楕円は、太陽を周る惑星の軌道の姿でもあるし、放物線はフラッシュの反射鏡や吊り橋を吊るケーブルがとる形でもあるし、双曲線は発電所の冷却塔の形にも用いられる。これら3種類の曲線はアンテナ、望遠鏡のレンズ、衛星放送用のパラボラなどの設計に応用することができる。
ヒュパティアは、数学の事実が実社会でも応用できることを、編著によって改めて強調したということだ。

彼女は数学の著述だけじゃなく弁舌家や教師としても非常に評判が高く、当時の学生やアレクサンドリアの市民は、彼女をとても慕っていたそうだ。父親による責任感を持った教育を糧に、彼女は学者として、また指導者としても大きく成長していったということだ。

ところが、5世紀の初めごろに入るとアレクサンドリアは激しい社会変化を受けるようになる。
ヒュパティアは、当時のキリスト教徒によって、彼女のような数学や科学の考え方が自分たちの思想と合わず、信者を奪っている思われるようになってしまう。キリスト教徒とアレクサンドリアの知事との争いも頂点に達してしまって、街で暴徒が生まれるようになるのだ。

ヒュパティアもその争いに巻き込まれてしまい、アレクサンドリアの講演会場に馬車で向かっている途中にその暴徒たちに襲われて、殴り殺しにされたてしまう。その後は、衣服を剥ぎ取られて、体をバラバラにして燃やされたと言われている。また、彼女の死に合わせるように、学問の中心地もアレクサンドリアからギリシアのアテナイなどに移っていった。

学者としても指導者としても優れていたヒュパティアが、最後には惨たらしい最後を迎えたということもあって、そのエピソードは歴史家や著述家によって何世紀にもわたって語り継がれている。

彼女の生涯や、数学への貢献の話を伝えた本は今でもたくさん出版されているので、興味のある方はチェックしてみてほしい。

参考文献:『数学を生んだ父母たち―数論、幾何、代数の誕生 (数学を切りひらいた人びと) 』

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