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部分の総和は必ずしも全体にはならない(六人の盲人と象)

※この記事は2022年1月13日にらstand.fmで放送された内容を文字に起こしたものだ。


視野の狭さでいろいろ苦労した経験はきっと多いはずだ。

例えば、教室を掃除してるときに目の前のほうきに意識をむけすぎて、横で掃除してる人とぶつかって怪我をしたみたいな物理的な視野の狭さもそうだし、文章読解の問題で、特定の段落しか見ずに全体の流れを把握してなくて答えを間違えたり、みたいな思考に関する視野の狭さもあるだろう。僕もすごくアホの自覚があるので、今でもそういう視野の狭さは常に感じる。

こういう視野の狭さをうまく説明した寓話があるので紹介したいと思う。「六人の盲人と象」という話だ。

ある日、六人の盲人が象を触ってその正体を突き止めようとした。
一人目の盲人は象の鼻に触り、「象とはヘビのようなものだ」と言った。
二人目の盲人は象の耳に触り、「象とはうちわのようなものだ」と言った。
三人目の盲人は象の足に触り、「象とは木の幹のようなものだ」と言った。
四人目の盲人は象の胴体に触り、「象とは壁のようなものだ」と言った。
五人目の盲人は象のしっぽに触り、「象とはロープのようなものだ」と言った。
六人目の盲人は象の牙に触り、「象とは槍のようなものだ」と言った。
それから、六人の盲人たちは長いこと大声で言い争い、それぞれが自分の意見を譲らなかった。

それぞれの盲人が触ったのは、象の体の一部に過ぎない。にも関わらず、全員がその一部こそが象の正体だと思い込んで、頑なに自分の意見を変えなかった。
限られた視野で対象を捉えると、人は理解に錯覚を起こす。なのでこの寓話からは、「対象を見る際は、多面的な視点で捉えて視野を広げる必要がある」ことを学ばされる。

実は、この寓話にはもう一つ教訓がある。それは「部分の総和は必ずしも全体にはならない」ということ。

六つの視点を持つことは確かに重要だ。しかし寓話にもあるとおり、何も考えず六つの視点を持ったところで、像に対する印象が増えるだけで余計に混乱する。
こういう時は、象の体を触るときに1箇所触ってすぐに印象を固めようとせずに、象の体をできるだけ多く触って、肌触りや肉質、匂いなどをから「なんとなくこんな感じ」という曖昧さを持つことが重要だ。
曖昧と聞くと理解に結びつかない感じがするが、例えば自転車の乗り方一つとっても、最初から自転車の構造を全て把握して乗ろうとする人はいない。
「自転車の構造なんてよく知らないが、とりあえず、こういう感覚でハンドルを持って、このくらいのスピードでペダルをこけば乗れるようになる」という曖昧さを持つから、なんだかんだで乗れるようになる。自転車の構造なんてその後で考えればいいことで、とにかく乗れることが一番大事なのだから。

こういう感じで、対照を観察するときはまず全体を曖昧に捉えて、情報に幅を持たせたほうがいい。最初にそれをすることで全体的なイメージが掴めるから、想像力が広がり、結果として情報がたくさん集まる。象の正体も、こうすればより正確に捉えることができるだろう。

視点は多く持つこと。
但し、部分だけ見ても全体は掴めないから、最初は曖昧さを持って想像力を広げながら把握するといいという話。


参考文献:図説 科学史入門(ちくま新書 1217)

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