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巨人の肩の上に立つ:アイザック・ニュートン

※この記事は2022年2月25日にstand.fmで放送した内容を文字に起こしたものだ。


今日も数学史の解説していこう。
今回紹介するのは、皆さんもよく知っている、17世紀〜18世紀にかけて活躍したブリトゥンの数学者アイザック・ニュートンについてだ。これまで散々数学史の解説をしてきたが、今回になってようやく、この偉人オバケについて解説できる。

彼は1643年、ブリトゥンのリンカーンシャー州の近くにあるウールスソープというところで生まれる。父親は、裕福な農家だったのだが、ニュートンが生まれる数ヶ月前になくなってしまう。ニュートンが3歳の時、母親は牧師と再婚して、彼は母方の祖父母に預けられた。

子供の頃のニュートンは一人でいることが多く、建物の絵を描いたり、ネズミで動く風車とか、クランクで動く四輪の荷車などの模型を組みたりして過ごしていたそうだ。
12歳になると、グランサムのキングズ・スクールに入学して、そこで学業に有望なところを何度か見せていた。ウールスソープに戻ってくると、アイザックは学校を辞めて農場を経営することになったのだが、その仕事には適性も関心もなかった。

1661年になると、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学する。元々は法学士になるつもりだったようだが、次第に哲学、科学、数学への関心が強くなったと言われている。「哲学上の疑問」と題されたノートには、彼が自分で読んで影響を受けた本についての考えなどが記されている。

1665年に学部を修了して学士号を得たニュートンだったが、同じ年の6月にブリトゥン全域でペストが流行したことで、大学が1年半にわたって閉鎖される。ニュートンはこの熱意も創造性もある時期を、ウールスソープにほとんど引きこもって数学や哲学のアイデアを考えていたと云われている。これがのちの三大発見、「微積分法」「光の理論」「重力の理論」の考案につながる。

翌年1667年にケンブリッジ大学が再開されると、ニュートンも復帰して勉強を続けて、トリニティ・カレッジの研究員(フェロー)になる。その翌年には修士号を得て、ケンブリッジ大学第二代数学教授となった。

彼の功績はどれも有名すぎて一つに絞るのはすごく難しいのだが、今回は数学史解説なので、数学の功績の中でも特に有名な微積分法の発見について話そうと思う。

ブリトゥン国内に1665年6月、ペストが蔓延して、ケンブリッジ大学が1年半にわたり閉鎖されていた時期に、ニュートンはこの微積分法のアイデアを考えていたという。当時は「流率法」と彼は呼んでいた。
大学では、数学古典と最先端の本の両本を読んで過ごしながら、面積、接線、極大極小、体積などに関する最新の成果をほとんど知っていた。ニュートンはそこで知った様々な手法を自身のアイデアと統合して、微積分の理論を立てていったのだ。

微分がどういうものか簡単に説明すると、グラフの接線の傾きを求めることによって、連続的に運動する物体の速さを求める演算のことだ。
具体的にいうと、ο(オミクロン)という文字で表される無限に小さい成分と、その成分を含む関数f(x)で表された割合、f(x+ο)-f(x)/οの概念とで実験をして、計算の最終段階でこのοを0に等しいものだと考える。今でいう「極限」という概念だ。
この考え方によって、ニュートンは機械的に色々な代数的関数の導関数の公式を決めることができた。そしてこの考え方をさらに改訂して、連続的に運動する物体の速さを表す「流率」という概念を立てた。

ニュートンは1671年の論文で微積分の全貌を初めて明らかにして、その内容を一般に広めようとしていたのだが、販売を取り扱っていた当時の本屋は、難解な本は売れないということで、高度な数学の本を出したがらなかった。ニュートンの微積分の考えが広まったのは、そこからかなり年月のたった1736年、ブリトゥンの数学者ジョン・コルソンという人物がラテン語の原書を英訳してからのことだ。うまい表記法がなかったのと、発表が遅れたのとで、ヨーロッパの数学界がこの革命的な微積分の理論を取り入れるのが遅れることになってしまったのだ。この微妙な発表のタイムラグが、後のライプニッツとの一大論争も引き起こすことになる。

ニュートンの発表した微積分の理論で一番重要なのは、「微分と積分が逆の関係ある」ことを明らかにしていることだ。実は、ニュートンが微積分の理論を発表するもっと前から、微分や積分に近い考えは各国の数学者が何度か発表している。ただ、微分の演算と積分の演算が密接な関係にあるという事実を突き止めたのはニュートンが初めてだったのだ。
この事実は「微積分の基本定理」と呼ばれていて、微分積分の分野において非常に重要な基礎となる。

さらに彼は、微積分の機械的な手順を説明するだけではなくて、それがどういう問題を解くのに使えるのかの方法も説明している。
例えば、曲線の極大点、極小点を求めるために、流率、つまり接線の傾きをゼロに等しいとおいて方程式を解くやり方とか、接線の傾きを使って方程式の近似解を求める「ニュートン法」と呼ばれる計算の手順を説明してる。

これらの問題が解けるようになると、砲弾の速度や弾道曲線の計算に応用ができるので、近代の微積分は、特にこうした兵器についての計算として利用されていた。今ではもっと広い対象への速度や加速度に関わる計算とか、面積、体積、重心、圧力の計算が行われていて、これが積み重なると、ロケットの軌道計算や道路上の積雪量の計算など、実社会で起こる問題の解決にも応用することができる。

ニュートンの流率に関する論文が発表される前に、ドイツの数学者ゴットフリート・ライプニッツは、ニュートンとは別に微積分法に関する同等の理論を考えていた。ライプニッツはその方法を論文にまとめて1684年にドイツの数学誌に発表した。
彼の微分と積分の考え方は、ニュートンの流率と流量に対応しているのだが、表記方法にdxやインテグラルなどを使っていて、こちらの方が微分や導関数、積分の概念を理解するのも操作するのもより簡単だったのだ。そう、実は今使われている微積分の記号というのは、ニュートンではなく、このライプニッツによって考案されたものなのだ。

ところがイギリスの数学界は、ニュートンの未発表の原稿をすでに読んでいたので、ライプニッツに対して「ニュートンの考えを盗んで自分のもののように発表した」という盗作の疑いを向けてしまう。これにライプニッツ側も反論をしたことで、ブリトゥンとヨーロッパ大陸の数学者の間で、「微積分の考案はどちらが先か」という激しい論争が18世紀末まで続いたとされている。今では、ニュートンとライプニッツが微積分の理論をそれぞれ独自に考えたという意見で一致しているようだ。
ざっくりとだが、ここまでが、ニュートンの微積分法の発見の歴史になる。

ニュートンの功績はこれにとどまらず、光学、物理学の面でも多大な影響を与えていて、特に運動の法則と万有引力の法則についてまとめた『プリンキピア』という論考は、「実験による証拠と数学的な証明で支持されるまでは科学理論は成立しない」ことを説いた初めての著作だったので、この本をキッカケに科学の研究のあり方も大きく進歩したと言われている。

彼は生前、数学や科学で大きな前進を遂げることができた経緯を問われて、「もし、自分に人より遠くが見えたのだとしたら、それは巨人の肩の上に立っていたからだ」と答えたという。

微積分の理論や運動の法則、万有引力の法則を考えるとき、ニュートンは先人や同じ時代の人々の発見を総合して、それらを組み合わせながら自分の考えまとめて理論を立てていた。どんな成果も、すべては先人が残した過去の功績の上に成り立っているということだ。
僕はこの言葉を教訓として学ばされた。

ニュートンの他の功績については長くなるので詳しく話さないが、面白いと感じてくれる人はきっと多いと思う。興味のある方はぜひ調べてみてほしい。

参考文献:『数学を育てた天才たち―確率、解析への展開 (数学を切りひらいた人びと)』

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