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vol.1 「在り方の定義(前編)」

一般的には、『在り方』というと自分軸や使命、直観、在りのままなどと呼ばれたりします。
微妙なニュアンスの違いや、背景や奥行きを考えると、棲み分けをした方が適切かもしれませんが、イメージ統一のためにこれらの言語と似ているものなのだなと感じていただければ幸いです。

そもそも、物質には『在り方』があります。
コップにはほとんどの場合、持ち手が付いています。これは使い手の利便性を考慮して、持ち手が付いた構造をしております。これがコップの『在り方』となります。
その辺にある石ころにも、車にも、当然『在り方』があります。
万物に『在り方』があります。

さて、人間の『在り方』は何でしょうか?
あなたの『在り方』は何でしょうか?

かつて私は「『在り方』なき人生に”自由”はない」と、教えていただいたことがありました。
当然その時は意味が分かりませんでした。
『在り方』なんてみんなあるの?何それ?別に自由になれるでしょ?と思っていました。

さらに質問を重ねますが、”自由”とは何でしょうか?
一般的な解釈として”自由に生きる”とは、好きな時に好きな人と好きなことをする生き方を生き方を想像するかも知れません。
少なくとも私はその一人でした。
お金を十分に稼いで、アーリーリタイアをして、家族と自由に世界中を旅できたらなと思っていました。
しかし、学びを深める内にこういった生き方は、”自由”ではないかもしれないと気付き始めたのです。
好きな時に好きな人と好きなことをする。素敵な生き方の一つかもしれませんし、SNSにはこういった煌びやかな生活を積極的に発信する方は多いかもしれません。

ただこれは危うい一面を持っています。
それはなにかと言うと、欲に支配されている点です。
欲のままに、好きな時に好きな人と好きなことをする生き方。
これはもはや動物でしょう。笑
資本主義経済のため、お金さえあればこのような生き方を手に入れることは可能です。そういった生き方を善とする、発信者は少なくないかもしれません。
ただ、『在り方』という概念を感じてしまった私にとって、不自由にしか見えません。

なぜつらつらと、このように”自由”について記述したかと言いますと、現代における自由の解釈は本質的な”自由”とかけ離れていると感じたからです。
また、『在り方』を体現した先にある”自由”のある人生は、”貢献性”に満ちているからです。
資本主義の影響で、お金を持てば自分本位に生きることは可能です。
しかし、この世の中の全てにおいて、自分本位で存在するものなどありません。
コップは、持ち手が持ちやすいように。
花の鮮やかさは、虫を引き寄せるために。
(仏教の世界では、人を癒すためとも言われています。)

人間の本質的な『在り方』は、他に貢献するためというのが宇宙の理かもしれません。
創造主と話さないと分からないことですね。笑
ただ、煙が上に上り、水は下に流れるように、この世界に原理があることは確かです。

『在り方』を決めてみてはいかがでしょうか?
次回のvol.2は『在り方について(後編)』についてです。

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