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"頑張る"という言葉の使用条件

 どうもtakuhoです。
最近は浅草や汐留などに出向くことが多く、暑い中いつも電車通勤をしている人がいらっしゃると思うと、ゾッとしていました。
普段電車通勤の方、本当にお疲れ様です。

さて今日は「頑張る」について書いてみようと思います。

頑張るとは

 皆さんは頑張るってどんな言葉だと思いますか?
今までは誰がどう見ても"褒め言葉"だったり"励ましの言葉"だったはずが、なぜか現代だとパワハラと言われたりすることも出てきました。
今まではそんなことなかったのに、現代になってそのような問題ができてきてしまった。その原因はなんでしょうか?
僕が思う原因は「基準のない頑張るが増えたから」です。

頑張るには基準が必要

 僕は基本的に頑張るという行為は過去形意外で使うことができないと考えています。
理由は、"頑張った"という行為には「どこまでやったら頑張ったと言える」という判断基準が必要だからです。判断基準のない"頑張った"単純な自己満足であり、その行為自体に意味を見出すことはできません
他人でも自己でもいいですが、どこまでやれば"頑張った"になるのかという判断基準をしっかりと設けた上で、その基準をどのようにすれば越えることができるかを試行錯誤し、努力することに初めて意味が生まれます。

僕は以前、結果よりも過程が大事であると書きましたが、それは結果が大切でないということではなく身の詰まった過程を持たない結果などなんの価値もないということです。そのため、自己満足という身を持たない過程で諦めている人の行動に価値は見出されません

共通の基準

 基本的に頑張ったかどうかの基準は人それぞれです。しかし、それでは世界は回っていかないし、困ってしまう人が多くなります。
そこで、設けられた共通の基準があります。それが"結果"です。
もちろん結果よりも過程の方が大切です。しかし、それはその人の成長に関しての話であり、他人からすれば、自分の指示を完遂したか、必要な書類を揃えることができたか、お金が用意できたか、という結果の方が大切です。だからこそ、人は他人に結果を求めます。

これを間違っていると主張していいのは、スタバに行って抹茶クリームフラペチーノを頼んだ時に「私頑張りました。けど無理でした。」ってクソまず抹茶ドリンクを出されても「しょうがないね」って言える人だけです。

だからこそ、頑張ったかどうかには明確な基準が必要であり、そこに他人が介在している場合には、結果という共通の基準をクリアする必要があります。

何度も書きますが、結果よりも過程の方が大切です。しかし、その"過程"とは、他人との共通基準である"結果"を残すことのできた過程のことを指し、その結果が出る前に諦めてしまった過程に残念ながら価値を見出すことはできません。
だからこそ、結果が出るまで努力という過程を続けなければいけないのです。
だって"いつ結果を出すか"は決まってませんから笑

最後に

 いかがだったでしょうか、「頑張る」。
最近は、いや頑張ったんですけど〜という言い訳や、頑張れなんて頑張っている子に言わないであげてください、など頑張るという行為のハードルが下がっているかのように僕は感じています。

しかし、頑張るとはあくまでも自分が結果を求めて死に物狂いに過程を続けていく中である時ふと感じるものであり、自ら主張するものではありません。頑張るは現在進行形ではなく、過去形だからこそ意味があるんだと個人的には思っています。

また、頑張ったって言えるように頑張ります!笑

それではまた。

takuho

 

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