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第一章:小杉拓哉のストーリー(学生編)

こんにちは小杉拓哉です。

今回のnoteでは、僕が生まれてから今のキャリアアドバイザーに至るまでのストーリーをお伝えします。

あなたがこのストーリーを読む事で、これからの人生の原動力だったり働くことへの活力に繋がってくれれば嬉しいです。

それでは少し長くなりますが、僕の過去話にお付き合いください。

24時間ソフトテニスと共に

僕が生まれたのは埼玉県の小川町。家の周りには田んぼや畑が広がっていて、自然豊かでのどかな場所です。

関東中心に展開しているスーパーマーケットの「ヤオコー」と、「ファンションセンターしまむら」の発祥の地だったりします。

両親は共働きでごく普通のサラリーマンとパート勤めの主婦、2歳年下の妹と4人家族で生活してきました。

実は僕が生まれてから大学生くらいまでの人生はほぼ全てがソフトテニス中心でした。
ソフトテニスを始めたのは小学校2年生からで、大学生になるまでほぼ毎日1日中テニスをするというのが当たり前の生活を送っていました。

始めたきっかけは親戚と両親の影響でしたが、なんと初めて出場した大会で優勝するという華々しいデビュー戦を飾ったことから僕のテニス人生はスタートしました。

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小さい頃から努力することは好きでした。

小学生のうちに関東で3位、全国でベスト8という経験もしました。

学校の友達と遊ぶこと以上にテニスだけに夢中になっていて、
「練習(努力)すること」=「夢中で頑張ることが楽しい」

僕の今後の人生にも影響する貴重な考え方を形成させてくれた出来事だったのかもしれません

中学に入ってからは、テニスと勉強の両立を本当に頑張った時期です。

地元の中学に進学したが部活動が盛んではなく小学校時代のライバル達が勝ち進む中、思うような結果を残すことができなくなり悩み、そして悔しい日々を過ごしていました

「中学のテニス人生は人生で一度きり」という想いが自分の中で強く現れ、
中学2年生の8月頃両親に懇願をしてテニスの為だけに越境で別の中学に転校する事になります。

今という時間を全力で悔いのないように生きたい!という軸となる考えがはっきりと生まれました。

一方で勉強に関しても中学1年生の最初の期末テストで学年順位がなんと下から15番目の順位に。

これはまずいと思って、最初は自分の中でできる最大限の努力をしたものの
全く成績が上がらず己の非力さに涙しながら両親に懇願をして夜は塾に通わせてもらう事になります。

裕福な家庭ではないことは子供ながらに実感をしていたので、両親にはとにかく感謝しながら死ぬ気で勉強してきました。

その頑張りも徐々に実を結び偏差値40→偏差値65となることができたんです。

これは今でも周りの人に話すと驚かれますが、当時中学生だった頃のスケジュールは

4時:起床
5時:電車通学
6時:朝練
7時:学校で授業
16時:部活
20時:電車で帰宅
21時:塾で勉強
24時:帰宅
25時:就寝

平日が毎日これで、毎週土日は一日中テニスに打ち込みました。

今までの人生を振り返ってみても、ここまで過密なスケジュールを継続し続けられたのは自分にとって貴重な経験だったなと思います。

全力で後悔のない今を生きたい想い。自分のわがままを全力で応えてくれた両親への感謝。自分の言動に対して行動で裏切りたくない覚悟が僕を成長させてくれた。

そしてやっぱり好きな事に打ち込むって凄いエネルギーを生むんだなと思います。

こう自信を持って言える中学時代でした。

挫折と逃げ

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高校は埼玉県の中でソフトテニスの強豪校に入学。でも、この高校時代でソフトテニスの挫折を味わいます。

その高校は部員数80人越えで、北海道から沖縄まで特待生としてテニス部に来るような高校でした。

かなりストイックで、文化祭なんかも部活動の顧問から

「あんな弛んだ空気の催イベントに居てはならない」との方針で、全員不参加なくらいです(笑)

本気でインターハイも狙えるような高校でしたが、僕は結果的に3年間で一度も団体戦のメンバーとして選ばれませんでした。

大会の実績的にも個人ではそこそこ悪くはなかったかと思います。しかし大会で結果は出していながら団体戦メンバーに選ばれないという…

今まで団体戦には当然選ばれるどころか、チームを引っ張る主戦力だったはずなのに。

反抗の声も上げる事なく、ただただ辛い想いをしていました。

その鬱憤を晴らすじゃないですけど、勉強の方により集中してました。

校内模試で400人中2位だったこともあり、その「頭いいポジション」を保つため…

そして、上手くいかないソフトテニスからの逃げだったのかもしれません。

テニス人生は結局辛い想いのまま幕を閉じ、勉強の方は功を奏して、指定校推薦をもらえて理系大学へ進学しました。

そんな高校時代を経て大学に入ってからは、少し自信を持っていた勉強に対しても挫折するんです。

高校の頃は上位キープしていたとはいえ、
所詮井の中の蛙だったことの気づいたんです。

周りのレベルが急に上がって。

大丈夫だろう。甘い考えといかに都合よく世の中を見ていたんだと。

大学で学ぶこともあまり真剣に選ばず、ただ単に面白そうって感覚でしたね。

高い学費を払ってまでやる意味が分からなくなってきました。奨学金も数百万円とか借りていましたから。

結局自分の中では凄く努力はしたつもりでしたがこのままだと間違いなく留年は目前。

留年するかどうかの選択に迫られてしまい、改めて自分の人生の分岐点に立たされる。

意を決して僕は理系から文系の大学に編入しました。

自らを模索し続ける

学費も安く抑えられて社会人になった時に役に立つであろうと考え、簿記を中心とした商学や経済学といった分野を専攻することに。

一方でこれまでずっと人生を賭けてきたソフトテニスに関しては

楽しむくらいがちょうどいいな!

と思う様になり小中高の頃の様なフルタイムでテニスをする日常ではなくなりました。

大学時代に一番力を入れていたのが、

・アルバイト
・就職活動(インターンシップ)

大学の授業は1年生で通っていた理系大学と異なり、かなり余裕が出てきた学生生活

2年生で編入することができ、大学の単位を集中して取りに行った結果3年生で卒業確定の状態になることができました。

なので4年生の1年間を自由にすることができるようになったんです。

そんな中で大学生らしい遊びや雰囲気にもイマイチ馴染めなくて、卒業まで地元のTSUTAYAとスーパーと塾講師の3つのアルバイトを掛け持ちしする事に。

特にTSUTAYAのアルバイトでは大学4年間を通して働き、最終的にはリーダー経験もさせていただいたりと、自分の仕事に対して誇りと責任感を与えてくれた。

一方でここから、話がインターンシップや就職活動といった話題になっていきます。

結果的に自分が当初から目指していた会社に就職できることになるんですが、

それに至るために大学2年生〜3年生はインターンシップとか企業研究とか頑張りました

僕の性格だと何事でも先手で物事に取り組んでおきたいといった心理がよく働くんです

これは過去の勉強を通した経験からこの価値観から生まれたのか...

例えば進学先を選ぶ時に、自分が行きたいって思ってる学校の偏差値を十分満たしていたら安心して選択肢に入れられる。

逆に捉えると、目指したいって思ったり迷ったときに選択肢として選ぶことができないっていう状況に陥ってしまうことが何より嫌なんだ。

これは僕自身の人生において「自分自身の選択肢を常に多く確保しておきたい」という恐怖的な欲求がそうさせると僕は自分自身を分析しているんですね。

だから就職活動も早い段階から頑張れたし、大学入学の時の二の舞にならないように
自分の人生に対して真剣に向き合えたのかもしれないです。

この大学4年間を通して、真剣勝負の世界ではなく楽しむ中心のテニス。

仕事でお金を稼ぐ大変さと楽しさ。

勉強においての度重なる挫折経験と再挑戦できた自信。

そして社会人になるための準備と長期の自由時間を楽しむこと。

これらを学べた貴重な4年間。


ここまでで僕の人生ストーリー(学生編)は一旦終了です。

・ソフトテニスのことしか頭になかった小学校時代
・やりたいことに全身全霊を注ぎ込んで、イマという瞬間を生き抜いた中学校時代
・挫折と我慢の連続。自信を無くしテニスが嫌いになる悔しく辛い高校時代
・たくさんの経験と自分の人生について真剣に向き合っていった大学時代

僕の学生人生は無難なことなんて殆どなく、我ながら右葉曲折で面白い人生を歩んできたなって

このブログを書いていてしみじみと実感しています。

さて続編ではここまでの人生で培ってきたことをどうやって活かしていくのか。

そして学生時代とは比べ物にならないくらい人生に迷って、悩んで、怯えて、恐怖して、挫折に次ぐ挫折を経験していきます。

もちろん楽しいこととか良かったことだってたくさんあるんだけど、
とにかく思うように進まなかった20代について執筆していきます。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

次章もお楽しみに!!!

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