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手が動いていれば安心

プログラミングを教科書で

高校1年の3学期はプログラミングに取り組んでいます。使っているのはSwift Playgrounds。iPadを使って,お互いに教え合いながら各自のペースで進めてきました。

とある事情で,ここまでやってきたプログラミングについて教科書(と言っても副教材のテキストです)を使って授業をやることになりました。Swift Playgroundsでやってきたことを,教科書の中の言葉や説明を使って振り返るような内容です。

はじめは「やれやれ面倒だな」と思いつつ教科書と格闘していましたが,ゲームのようなつもりでやっていたことが,実はこんな仕組みになっているのだよ,とか,こんな用語で説明されるのだよ,と解きほぐしていくのもなかなか面白いものでした。

プリント作っちゃうかな

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とりあえずKeynoteを作りました。今まであれば,Keynoteを画像に書き出してBookにして公開という流れになります。でも今回は紙の教科書使うし,久々にプリントでも作ってみるかと。Pagesを使って,懐かしの空欄補充プリントを作ってみました。そして印刷。

しかし,ここでまたふと思う。全員分印刷する必要はあるのだろうか? PDFでほしいですという生徒もいるだろう。ではどちらでもいいよと言ったらどんな割合になるのかな。

ほぼ半々

授業では,QRコードを表示して「ここからPDF版でもいいし,印刷したプリントでもいいよ」と言ってみたところ,クラスによって多少の差はあるものの,ほぼ半々に分かれました。こうして使い分けられるのはいい。

50分間講義

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Keynoteを使って50分間講義をして,生徒はプリントの空欄を埋めていく。そういえばこんな授業もやってたなという,何か懐かしい感じ。そして授業が終わった後の疲労感。そうか,50分間話す授業ってこんなに疲れるのか。ふだんいかに自分が話していないかということを実感。もうああいう講義型には戻れないな。そんなことを考えながら数クラス授業を行いました。

生徒の手が動いていると

生徒は同じ方向向いてるし,説明していると結構真面目にプリントに書き込んでいるし,なんだか生徒の手が動いていると安心するんだなあと気がつきました。自分自身,先生の板書を必死に写し,先生の説明を聞く授業をずっと受けて来た。そして自分も教師としてしばらくはそんな授業をしていた。その頃は生徒がいかに自分が想定した通りに手を動かしているかを気にしていたと思います。だから生徒が手を動かしていると安心。この感覚って怖い。

改めて見てみると,プリントの空欄はしっかり埋まっていくけれども,それは理解したことを書き込んでいるのでなく,ひたすらに埋めていく作業。理解するよりも埋めることが優先されているように見えます。

実質的には同じ内容を学んでいます。Swift Playgroundsでは自分で考えて実行してやり直して理解しながら進んでいる。講義ではとにかくプリントの空欄を埋めて完成させることに気持ちが向いていて,果たして理解できているのだろうか?

本来のノートは

本来,ノートは自分が学んだことをアウトプットして残しておくもの。板書は先生が理解しやすいだろうと考えて構成したアウトプット。それがそのまま自分に分かり易ければ板書を「写す」でもいいかもしれない。しかし,実際は説明を聞いたり板書を見て「なるほどこういうことなのね」を自分が理解した形でアウトプットするのがノート作りなはず。なのに,自分は「ううむ,こんなのチャチャっと終わらせたいぞ」と考えて,安易な穴埋めプリントを作ってしまった。事情はあったにしても生徒には身にならない1時間の授業だったなあと後悔。

生徒がただ手を動かしていれば安心するような授業。理解したことを自分なりにアウトプットする機会がない授業。まだまだけっこうあるんじゃなかろうか。



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