ドロドロの世界

話している言葉や、見ている世界の不思議さ。


「いくことから離れて行く者はありえない。もし、行く者が行くとしたら、ふたつの行くがあることになる。「行く者の行く」と「行くことの行く」である。」

普段、僕たちは何気なく「歩く」という言葉を使っているが、実際には「歩く者(歩く山田、歩く鈴木)」がそこにいるのであって、決して「(歩く山田から離れた)歩く」という何かが実態をもってそこに存在しているわけでは無い。

本来、歩く者から「歩く」だけを分離する必然性などありは無い。なぜならそもそも世界とは全てが繋がった「ドロドロの海」のようなものである。すなわち、明確に切り分けられる「物事の境目」なんて世界のどこにもない。だが、人間は、その切り分けられないはずの世界を強引に、サクッ、サクッと切り込み、世界を「これ」と「これ以外」に分けてしまう。そして、「これ」に「A」という名前をつけて「Aがある」などと語り始めるわけだが、当然、その「A」という言葉が指し示す「これ」に「実体」があるわけでは無い。だって、「これ」なるものは、何も無いところに無理やり境界線を引いて「これ」と「これ以外」に分けたことによって生じたものに過ぎないからだ。
「A」だろうと「B」だろうと、「石」だろうと「山」だろうと、「歩く」だろうと「話す」だろうと、いっさいの言葉は、「世界にあるモノ(実体)」を指し示しているのではなく、ホントウは何らかの価値基準に従って世界に引いた、区別のための境界線を指し示しているのである。だから、言葉とは「区別(境界線)そのもの」だと言っていい。そして、「言葉(知識)を組み合わせて新しい言葉(知識)を得る」とは、つまるところ、「区別を組み合わせて、新しい区別を作り出す」という行為に他ならない。「区別(差異)の体型によって物事(世界)を把握する」ー史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち 飲茶

なんなんだ。
この考え方と衝撃を受けたのでメモしときます。


#東洋 #メモ


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