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SNSという名の第4次大戦

「コマンドー」という映画は日本で特に人気がある。
秀逸な字幕からは、シュワちゃんが放った弾丸の数ほどの名言とネットスラングが生まれ、今もなお愛されている。
その中の一つに「何が始まるんです?」→「第三次対戦だ」というやり取りがある。
純朴でフワッとした「何が起きるんです?」なるQuestion から最大限のオチと面白味を引き出せる殺伐としたアンサー。それが「第三次大戦」

一方で、かの高明な物理学者アインシュタインは「第三次大戦では何が起きるんです?」と聞かれたことがあったそうな。そしてこう答えた。

「第三次対戦で何が起きるかは分からないが、第4次対戦がどうなるかは分かる。石と棒を使って戦う」

しかし、現実に「第三次対戦」は起きなかった。
かわりに「第四次大戦」は水面下で繰り広げられている。

さて、人は悟性と感性を働かせて、この世界にルールや定義といった線引きをし、そこに「言葉」を与えることで他者と意思疎通をできるようにしてきた。

 しかし、線引きするという営みは、「そうであるもの」と「そうでないもの」との二つに分けずして成り立たず、言葉というものは必ず何かを捨て去っている。
これを「捨象」と呼ぶのだと、僕らは小学校だか中学校で習うわけなのだけれど、言葉を使うということは何かを切り捨てていることと同義なわけだ。
言葉を使うことで、必ず何かが否定されてしまう。線を引いてしまう。
言葉を使うほどに、誰かを傷つけたような罪悪感と、遊びを無くしてような息苦しさを感じるのはその為なのだろうけれど、残念ながらそういったリスクについて学校では教えてくれなかった。

 なるべく否定を生み出さぬよう言葉を使うとしたら、言葉を極限まで削ぎ落としジョークに乗せて遊びを持たせるか、すべての言葉に無限の意味を与えてしまうかのどちらかだ。

たとえば、「あいつが許せない」という言葉が「みんな大好き」へと頭の中で変換されるとか。そうすることが出来たらなぁ〜と思うことがある。雪玉を投げつけあって、相手の熱に触れた瞬間に溶けて水に流してキャハハ!ウフフフ!できるような、いつの間にか蒸発してしまうような、そんなコミュニケーションに憧れる。そしたら、2割増し程度には世界は平和になると思う。

それに対して現実のコミュニケーションなんてのは、石と石を投げつけあっているようなもんだ。言葉はそれくらい硬い。遊びがない。
けど、当てるとメッチャクチャ気持ちがいい。

逆に、真っ正面からぶつけられると痛いので、当たらないように必死で避ける。石を避けられるとヒトは虚しく感じてしまうもので、何をとち狂ったのか分からんが、避けられるくらいなら殺してやると躍起になり始めた。

よく当たる武器をつくり、よく狙いをつけて当てる快感を得るのと引き換えに、ゲームが生まれ、戦争が生まれた。

そして第一次、第二次大戦を経て、「どこにも逃げ場がない&もの凄く痛い武器」を手に入れたとき、急に白けたのだ。
以来、第3次大戦は半永久的に”欠番“になっているワケなのだけれど、なんてことはない。
そんなものトバして第4次世界対戦をやればいいのだ。言葉という名の「石」をSNSに乗せて光の速さで撃ち合う戦争を、全世界で。
第3次を飛ばして開かれた「幻の第4次大戦」はまさに幻のような戦いだ。
避けたつもりなのに痛みが走り、撃っても手応えはない。この「石」を使った戦いの恐ろしさはここにある。硬いけど大きさが掴めないものが、光の速さで飛び交っている。戦いの次元が変わった。なのに、それまでの習慣が抜けないのか、未だに狙いをつければいいと思っている。けど当たらないので途方に暮れている。

 そういえば小学校の頃、ドッチボールをすると最後まで足掻いて避け続けるヤツがいた。最初は喝采が上がるけれど、結局シラケて野次を飛ばし始める。そして、終了のチャイムと共に強制的に試合は切り上げられる。
ソイツがなぜ避け続けたのかといえば、大概は球を掴むだけの動体視力と、相手にボールを当てる気概を持っていなかったからに過ぎないのだけれど、ある日に鬱憤がたまってボールを蹴り上げたそうな。ボールは思いの外よく飛び上がって、遂に体育館の天井に架かる鉄筋に挟まった。

そんな風にして、言葉も武器もルールも何もかも全部、天井に挟んで取り上げてくれないかなって。疲れていると思っちゃったりする。ついでに天井から核でも落としてくれないかな。とか、たまには考えたくもなる。
まぁ、どうやら無理そうなので、TwitterとかいったようなSNSでの「石のぶつけ合い・避け合い」に疲れたときは、そもそもその場から離れてしまうのが一番だ。

第4次大戦では、戦場へ身を投げ出すのも抜け出すことすら自由。

 ブログとかnoteで何かしらの長文を書くってのは、は天井に向けてひたすらにボールを打ち上げて封印をする遊びに近い。
誰に向けて投げつけるでもなく、ひたすらに打ち上げて満足するっていう自慰行為を、受け止めてくれる場所。
その球がたまに落っこちてきて、誰かの頭上をかすめていく。

「石」をぶつける快感を捨てよう。
その石はレンガにでもして、家を建ててのんびりしよう。
そんで、みんなで「コマンドー」観よう。
白旗を上げるように、言葉を書こう。
狙いをつけるのをやめよう。

そうすれば、きっと続く

いつか柔らかくて、溶けて空気にでもなって飛んでいくような、雪玉を投げつけあうようなコミュニケーションが可能になればいいなぁ

避けられなくても痛くなくて、狙いをつけても虚しくない

そのとき、何が起きるんです?

第三次大戦だ

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