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サラリーマンの素人高利貸 〜 サラ金..消費者金融..

こんばんは♪タコセン🐙です。



数日前、こんな本を読みました!




【サラ金の歴史 - 消費者金融と日本社会】

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今日はこちらの本をご紹介しようと思います。よろしくお願いします。



サラリーマンの素人高利貸

貸金業者からさえ敬遠されてしまうサラリーマンにとって、親戚・知友人からの借入は、たとえ有利子であっても貴重だった。

サラリーマンの世界で素人高利貸に関する記録を残したのが、当時の日本を代表するエコノミストの一人、小汀利得である。

小汀は、中外商業新報(現;日本経済新聞)の主筆として、東洋経済新報社の石橋湛山などとともに論陣を張り、戦後は日本経済新聞社の社長も務めた。彼のエッセイ『漫談経済学』(1932)では、「3年前の金解禁以来の急激な不景気で一番目立って殖えたのが勤め人向きの素人高利貸」だとして、次のように述べられている。

「これは昔からあるやつで、大きい役所なら少なくとも各局、各部に一人以上、銀行諸会社から新聞社に至るまで数段階のいわゆる「素人」高利貸がいる。

彼等は役所なら古顔の属官、雇いから中には小使まであって、世の表面に花々しく立って行ける望みを失った彼らの人生観は、金色夜叉に出る貫一のように普通の人間のそれとは一変してしまう。

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そこで食べるものも食べないで一生懸命給料を貯める。そうして段々貯まると、自分の周囲の金使いの荒い、そして人柄のよさそうなのに融通を始める。(中略)極く利息の安いので月三分、まず質屋並みの利息である」

職場の同僚に有利子で金を貸す素人高利貸は、現代でも身近にいるかもしれない。21世紀のフィクションだが、ヤミ金業者の丑嶋馨をダークヒーローとして描く漫画『闇金ウンジマくん』には、タクジー運転手が月六%の金利を取って同僚に金を貸す描写がある。

「同業者だからこの金利なんだ」というセリフは、素人高利貸の本質を突いていると言ってよい。職場の同僚なら毎日顔を合わせるし、給料日もはっきりしている。だから、金を貸しても取りはぐれる危険が小さく、金利も多少は抑えられる。

身近な同僚だからこそ安心して金を貸せるわけである。

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[第一次サラ金パニック]と貸金業規制

-信用情報機関と団信とに支えられて、大手各社は審査基準を引き下げ、急速に融資残高を伸ばした。

アコムは6倍、プロミスは8.6倍、レイクは8.9倍、武富士は21.4倍にも上った。

「100%融資の完全実施」を謳うプロミスでさえ霞んでしまうような膨張ぶりである。だが、信用審査の緩和に伴う融資規模の急拡大には重大な副作用が伴った。貸倒れの増大である。

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1975年から79年にかけて、プロミスは危険水準と言われる三%以上の貸倒金比率に達していた。審査基準の緩和によって不良貸付が増え、貸倒れが増加したのである。その後、1980年から82年にかけて貸倒金比率は改善しており、一応は危険な状態を脱している。

とはいえ、この間の貸倒金の絶対額を見ると、1974年の5860万円から翌75年には2億247万円と1年で一挙に4倍近くに増え、79年には11億1334万円、82年には63億2312万円と急増した。

これに伴って、経営効率を示す指標であるROAも大幅に悪化している。こうした貸倒れの急増と利益率の悪化をプロミスはすでに予期していた。

規模を拡大して顧客が多くなれば、確率論でリスクを制御できるようになる。何度もサイコロを振れば各目の出る確率は六分の一に収れんするという「大数の法則」が慟くからである。

多額の貸倒れを出したこの時期にも、規模を拡大したプロミスは、大数の法則に基づいてリスクをコントロールしており、各期の純利益を犠牲にしつつも黒字を確保し、業界での激しい競争に打ち勝とうとしていた。

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クレジットカードを契機とする多重債務問題

栄華を極めたサラ金業界は、21世紀に入る頃から一転して凋落をはじめた。その直接の要因は、やはり貸倒れの増大だった。

1990年代に急速な成長を遂げたアイフルは、1998年から継続的に融資残高に対する貸倒れ金の比率が3%を超え、2002年には5.3%に上った。2001年以降は、アコム・プロミス・武富士もそろって危険水準の3%を超え、2002年にはプロミスが5.1%、武富士が6.6%を記録している(川波•前田2011)。

さらに、各社の有価証券報告書から計算すると、2006年以降の貸倒れ金率は10%を超えることも珍しくなかった。90年代の融資残高の急増に伴って、各社は再び高リスク層への貸出を増やしながら激しく競争を展開し、貸倒れ金比率を高めていったのである。

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なお、サラ金が順調に成長していた1980年代から90年代半ばにかけての時期にも、問題がなかったわけではない。

しかし、借金と人びとの生活をめぐる問題は、この時期にはサラ金というより、銀行やクレジットカードとの関連で注目を集めていた。

1985年、サラ金問題に精力的に取り組んでいた弁護士の今瞭美の提案により、被害者と支援者・弁護士などで組織される全国サラ金問題対策協議会が「全国クレジット・サラ金問題対策協議会」に改称された。

クレジットカードとサラ金との「複合汚染」が目立ちはじめていたからである。

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銀行ほどではないにせよ、バブル期のクレジットカードの消費者向け融資残高も急増していた。1983年のカード発行数は約5700万枚だったが、1989年夏には1億4000万枚を突破し、1990年4月に実施された「第一回全国一斉クレジット・サラ金110番相談」では、2日間で1000件を超える相談が寄せられた。

相談者は1人平均で10枚のカードを持ち、計10社から400-500万円の債務を抱えていたという(『朝日』1990年5月13日付朝刊)。

クレジット問題に警鐘を鳴らす宇都宮健児は、次のように批判している。「サラ金に手を出すのは最後です。最近の問題は、信販、流通会社や銀行がクレジットカードを安易に発行し、消費者が能力を超えて借りられるようおぜん立てをしていることにある」(『朝日』1991年12月12日付朝刊)。

心理的抵抗の少ないクレジットカードのキャッシングで首が回らなくなり、サラ金に駆け込む多重債務者の数は、景気が悪化したバブル崩壊以降、急速に増加した。そのために、被害者運動や世論の批判の対象は、入り口となるクレジットカードのキャッシングに集中している。

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それではもっとサラ金の歴史を知りたいあなたは是非、本書を手に取って見てください。


それでは今日はこの辺で!

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最後までお読みくださりありがとうございましたm(_ _)m




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