次の次の次の朝へ(偽日記70)
あきらかに朝で、痙攣する思考にしじみの味噌汁を注ぎ込んでなんとか自立していられる、無責任さが迸るいまだから日記を書こうとおもった。偽物とめいうっても日記を書くのは難しい。そこで書かれた文章が私に直結しているかのように語る嘘を嘘としない契約を前提として書かれるのが日記であるはずで、そのくせ私は私を書くほど私っぽい飾り立てられた私を生んでしまうのがあまり好きでなく、形式のせいなのか自意識のせいなのかどうなのかもいまだよくわからないままで試走するしかないから書くのは修練的でもダルい。ただとにかく晴れていて広い空だけが風景、といいながら本来比較不能な主観的感覚で決まる広さの誤認をおもうし建築で空の広さを人間程度が狭められたとしても総体からすればほんの僅かばかりの侵略であることをおもいながら、じゃあ空とはどこからどこまでを空とする定義がありその場合の面積はどれくらいなのか調べる気にもなれなければ考える気もならない欺瞞が雲一つないのを裏切ってあたまのなかの積雲をつくっていくのに誠意がないからまずそれら全てを無視するところからはじめてどこまでもどこまでも青いことにしていく。
寺にいたきのうがある。さいとう・たかを「サバイバル」のコンビニ本3巻だけが手元にある状態で。しかも自宅からかなり距離のある寺で、県内ではあるものの地名もよくわからない場所だった。帰る手段もない。酔っ払ってどうこうとかでもなく、確実に人為的な何かしらによって私にもたらされた状況で、経緯自体は説明可能なのだけれど、説明したところで本質的になんでそんな運びになったのか私自身がわからない部分も多いから語る意味がなく、だから私はとにかく放り込まれた寺で人を待っていなければならない時間のなかにいた事実っぽい記憶だけがあり、それをほんとうとしながらリアリズムのエピソードを連想できる担保があたまのなかで取れないいまおもうのは、その寺で考えていた嘘の記憶だけだ。
とにかく「サバイバル」を読んでいた。「ドラゴンヘッド」は全巻もっている。世界崩壊したっぽい環境のなかで潔癖症ゆえ死ぬヒロイン(つまり現状の人間的とされる営みが本質的な生存を阻む生態と環境のズレ)とか、性行の隠喩で蛾の交尾が出てくるのすげえな、の終末世界はどうでもよく、考えていたのは漫画の内容の外のことで、なんで私は主人公を主人公と認識できるのか、さらにいえばヒロインをヒロインと認識できるのかのことだったりした。それは3巻だけ手元にあるなか、ほぼ作中で描写されるのが彼ら彼女らだけだからの紙面割合におけることに思考を転がせば視点の支配性みたいな話になるかもしれないが、それよりも最初のページにかかれた人物を次のページにかかれた人物とする同一性がどういった理由でそうであると認識でなされているのかのほうが私の興味。文章だってそうで、最初にわけのわからない空がうんぬんとかいっていた語り手といまここでの箇所の文章を書いている語りの同一性をなんで疑わずにいられるのだろうを考えながら、けっこうリアルの感覚として過去の自分といまの自分の同一性に悩んだり(するフリをする)もする私がいて、嘘を嘘としない嘘が固形の現実か?の謎に目をむけつつなにもわからない私だけが取り残される。アニメーションの、なんでもいいが、ハイジ的な人間の少女でもどらえもん的ロボットでもなんでもいいが、厳密には一コマごとに異なる絵であるそれらを私たちが同一の人物とする嘘を嘘としない視覚的経験における約束事が案外現実の他者や自分にも適用されているのではないかとか考えているうちに飽きてきたのでここでやめるのはもう数分まえの私といまの私がズレているから。とりとめのなさになんの責任も取らずに次の次の次の次の次の次の次の朝へいく私が私じゃないくせに私の振る舞いで朝食をつくりだす。
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