流し台の写真(偽日記78)
さいきん人と話して喜び、飯つくって喜び、風を切って喜び、みたいなのをわりとしっかり矜持でき、寝起きのタイミングとうっすらしている時間の軽さ(朝に寝て、昼に起き、たまに働く)以外は、まあまあ調子がよく、小説だって読めるやつは読める。けっこう私は読めないものは本当に読めない、本当はそういう偏食系なのだが、それもまた体調に左右されがちなので、少なくとも理性でまじで読みたいと肉体でまじで読みたいがある程度は噛み合っていれば必ず読めるようにはなっている。嬉しい。井戸川射子の小説が、さいきんはとても良く、良い!しらん!良いから良い!って健やかさでいってしまえている感じもあり、それもまた嬉しい(でも意味を組み立ていっちゃいたくなる欲望は、むしろ反対に強まる小説かもしれない、私にとっては。だからそういうのからどう距離を測るか考えるのにもいい)。
いまのところ「この世の喜びよ」を1.5回くらい読み、「膨張」をさっき1回読んだ。「膨張」は「ここはとても速い川」にはいっている中編だけれど、表題作自体はひとまずベッドの頭のヘリみたいなスペースに置き去りにして、たぶんしばらくは忘れたふりをする気がする。
夜の、そこまで深くもない(いや深いが)時間に、呼んでもらった人たちと話をしたさい、全作読んでいる人から、簡易的に、体感よりのを/でも明晰に手がかかっている、のをきいていたので、「膨張」は最初の段階で、伝達の通りの感覚で、ほお、となり、でもできれば別の道程で読みたい、追ったあと背中を蹴って飛ぶ感じでできるだけ離れたいもある(私は他者に似すぎるきらいが、人によっては稀にあり、たいていは、でもパーツじゃんで自分でも折り合えるが、そうでないときもあり、そうでないときはなおさら慎重であるべきで、だから自分でいうことはないが、あまりにもな予感がある場合は、嬉しいけど甘えが危ない)から、とやや気張って読んだけど、でもなるほどに落ち着く感じが大枠ではあってやや悔しい。そのあと自作(こんどアンソロジー本に入る、”私はあなたの光の馬”というだいぶ付き合いが長くなってしまった、気づけば関わったそれぞれの私がたくさんで、だから私じゃない私の亡霊みたいな小説)を読んで、これはまだ良い、となり、他の少しまえの過去作(たしか去年書いた、唯一リアリズムで書いた小説)や現在形のまま止まっているもの(歯の小説)を読んで、ああこれは小説じゃないな、とかおもったりし、それで嬉しくなってはにかんだりもする。
いまは深夜って呼ぶにはあまりにも老いぼれた、ほのかに明るくてあちこちの関節がダメになってそうな時間だけれど、嬉しいときはわりとゆるせる。台所にいくと、そういえばタッパーが空になっていたので、お湯を沸かし、冷ましてからヒュミストーンを濡らし、あたらしい葉をつめる。手巻きタバコは安くて助かる。皿を洗う。流しの写真を毎日とったら、自分になるまえのそれぞれの残りカス、自分よりも自分にみえそうな気がした。年齢とか立場とか収入とか身体とかも、裸の写真を生きた年数分だけ並べるよりもわかってしまいそうで嫌だな、過程の殻だけとったら、記憶できない記憶なら、とおもった。
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