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人間どもの領土(偽日記80)

雨の予報だったから期待していたが、晴れやがった。
昼夜逆転して気づいたのだが、本当に眠れないまま無意に過ごしたあとの、朝の光ほど容赦のないものはない。雨の日ならまだマシだろうなとおもっていたのだが天気予報を裏切ってなんとも暴力的な形で陽光がカーテンの隙間からもれてきていた。それなら朝っぱらから外に出てやろうか、とサンダルを履いて少し歩いてコンビニに行った。ビールを二缶買った。外にでたら小雨が降ってきやがった。どこかから舌打ちがきこえた。雨脚はすぐにつよくなった。熱された地面に触れるたびに雨が溶けて香ってくる。買ったばかりなのにプルタブをあけるまえからビールはぬるくなっていた。説明する必要もないひどい匂いがすぐさま俺を取り囲んだ。マシンガンぶっ放す速度でコンクリートに着床して生まれでて、俺の鼻を不快にした。ビニール傘を買う金はなかった、いま手元でぬるくなっている馬鹿が奪ったからだ。二缶目を早急に飲み干した。それがいま俺にできる唯一の賢い選択肢だった、そもそも何をしても賢いといえるような状況じゃなかったが。

犬のしょんべんでも飲んだみたいに具合が悪かった。
帰ってシャワーを浴びているとスマホの通知音がきこえた。そのあとに電話も鳴った。電話に関しては何度も何度も鳴っていた。俺はいつもよりじっくりシャワーを浴びた。それくらいの権利は俺にもまだある。そのほかの権利についてはお察しの通りだが。
通知はスラックで、電話は昔の知り合いからだった。スラックに俺が先月働いた分の金額が計算されたスプレッドシートのリンクが送られてきていた。俺は請求書をつくりながら、電話を折り返した。
「よお、金困ってんだろ?」と知り合いはいった。「●●さんからきいたよ」
 困ってねえよ、といった。帰宅してからまたすぐに晴れ出した窓の外をみた。もうきょうは外に出ない、と俺はこのときは決めていた。外の天気とはもう手を切ったわけだが、しかしそれでも苛立ちはするのだった。
「でも困ってるってきいたよ」
困ってない、といった。金に困ったことなんて、本当は一度もない。本当の困難はそんなところにはない。おまえは知らないだろうが。
「なにいらついてんだ?」
天気予報にだよ、というかわりに、こんな早朝にいきなり電話かけてくるお前にだよ、いった。
「でも、起きてたんだからいいじゃねえか、寝起きの声じゃねえだろ」と知り合いはいった。電話口から遠くで人が大声で喋っている声がきこえた。「大きめの現場があんだよ、いま会社員じゃねえんだろ。三日あるからどこか入ってくれよ。全部でもいい」
「いつ?」
「今週末。金土日。金は前日仕込みで、本番は土曜の夜。人が足りないんだよ」
今週は土曜以外は約束もなかった。だがスーツはしばらくクリーニングしていなかったし、またこいつのいるような現場では働きたくなかった。今週は野草を探すんだよ、といった。ばくばく食ってやるんだ見つけた側から。おまえも来るか?
「なにいってんだお前」
「スーツがないんだよ」
「貸してやろうか」
「盗んだスーツか?」
「まだ怒ってんのか。ちゃんと返したじゃないか」
「あれを返したといえるのか? 勝手に持ち出して、そんであんな状態になって戻ってきたスーツを?」
「金は払っただろ、何年前のことを怒ってんだ。十代の頃だぞ」
そういう問題じゃない。忘れていたが、口にするたびに怒りが込み上げてきた。なんでこいつとほとんど縁を切ったのか、ようやく感覚含めて思い出した。とにかくもうあんな現場なんて入りたくないんだよ、と俺はいった。
「なあ、頼むよ、ほんとに人が足りないんだよ」
「金に困ってんのはお前のほうだろ?」
「わかったよ、紹介料半分戻すよお前に。それでいいだろ?」
俺もお前もな、もう老人なんだよ。手を見てみろ、嗄れて見えたか? 見えなかったらな、お前の目がもう老いている証拠だ、どっちにしろ。お前はとっととマトモな職見つけてちゃんとした環境で働け。そう言おうとして、結局、無理なものは無理なんだ悪いな、といって電話を切った。
結局、その間で請求書は完成しなかった。ほんとうなら三分でやれる作業だった。しかし、きょうの俺には永遠の時間を使っても完了できないようにおもえた。

そのあとは小説のゲラを直していた。書き込まれた赤字に一個一個検討し応答する文を書き加えていくと、もう夕方だった。今日こそはちゃんと正常な時間に眠りたかった。一旦作業を止め、読みかけだった文芸誌をぱらぱらと読んだ。素晴らしいものも、くだらないものもおなじくらいあった。音楽をかけて、すぐにとめた。カバンにバスタオルとシャンプーとボディソープと換えの下着を詰めた。手を切ったはずの窓の外と仲直りして、銭湯にいくことにした。4、5回蹴ってようやくスーパーカブのエンジンがかかった。
銭湯はすいていた。
喉が渇いていたので、風呂に入るまえにフルーツ牛乳を買った。喫煙所にいくとたまにいる常連客の女性とあった。彼女はベトナム出身で、フルーツ牛乳が嫌い(俺が喫煙所で飲んでいるのをみるたびそれ不味くない?ときいてくる)、名前は毎回きいて毎回忘れてしまう。
「稼げなくなったよ」と彼女がいう。円安の影響がモロにでており、いま送るともったいないので最低限しか故郷に仕送りできないし、これからもっと下がるなら、帰国できるまでの月日が大幅に伸びるかも、という。
「そもそも、なんの仕事をしているんでしたっけ?」
彼女は簡単に答えた。
俺はしばらく黙った。

湯船のなかでは、朝とは打って変わってまだまともな夏の匂いがした。またいつもの爺さんが水風呂の水を飲んでいた。爺さん、あんた毎回いるな。爺さん、あんたのことを何回この日記に書いたかももう忘れたよ、好きにしてくれ、いっそぜんぶ飲み干してみてくれ。枯れた肌をぜんぶ潤わせて、聖人かなんかのように花の匂いでも纏ってよ、爺さん、なんとかしてくれ、この世のあらゆるをだ!おまえが!爺さん!あんたがだ。救世主よ!あんたが変えるんだそうだ、見てみな、サウナ室から出てくるぜ、反出生主義者の群れだ、与えよすべてを、そうだ、爺さん、あんたがやるんだ。ええ? しわしわ笑っている場合じゃねえんだよ、な、おいらをみてみな、確かにおいらは血統書付きのマルチーズかもしれないよ?でもね、世を憂いてはいるわけよ、犬なりのこころでな、こころ?「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」ってか?ええ?馬鹿が。砕かれたらそれまでなんだよ、だから爺さん、いましかない、いまだけなんだよ、終わったあとに先なんてねえよ、わかるか?いまだけだ。いまだけだよ。全部ちゃんといま起こってんだよ。俺はマルチーズだよ。血統書付きのな。ほら、これだ、見てみろ。見てみろ、見ろ、絶対に見ろ、見たか?見ただけでゆるされるとおもってんのか?臨死体験したことある?爺さん、視界がぶわって広くなんだよ、そんで自分の体なんてな、そこらへんに落ちている石とおなじくらいの価値しか感じれなくなるんだよ、上からみるんだよ、この世のあらゆること、誰かが画面越しで悲嘆に暮れているね?なあ、ぜんぶそこらへんの石とおなじくらいの価値しか感じられねえか?画面の中からいつかおまえの首を絞めにくる日があるかなあ?ああ?俺か、俺にはずっとまえからぜんぶ石ころにみえているよ。でも石ころだって大事にしなきゃいけないって知ってんだよ俺は。なにせマルチーズだからな。おう、任せろ。俺はネットフリックス会員だからな。石ばっかりだよ、あちこち。でもたまには宝石だってあるよ。でも、宝石だって石だもんなあ。ラッコのポケットの中身と何が違うんだ?

風呂からあがったあと、銭湯の脱衣所にトリマーを呼んだ。俺のこの世で一番尊い毛をしっかりふわっふわな愛らしい姿に整えさせた。電話が鳴った。
「なあ、やっぱもう一回考えてくれよ、水曜までに返事くれればいいから」
「犬の出産見たことある?」
「は?」
いいか、ぽんぽん出てくるからな、わりと勢いよく、生まれてやるぜ俺はよって顔でな。一回でたくさん生まれんだよな。兄弟がいっぱいだ。おまえはどうだった?なあ兄弟。兄弟、生まれてやるぜっておもって生まれてこれたか?俺はね、生まれてやるぜっておもってたよ、母ちゃんの腹ん中で、絶対そうだ、ずっと尻尾振ってたぜ、とんでもないスピードで。きっと振るのが早すぎて、尻尾がないように見えたから、こうして人間として戸籍登録されちゃったんだね、こうして人間どもの領土でよ、きょうも生活しているわけ、間違ってよ。おまえはどうよ? 俺はいまもしっぽ振ってるけどおまえには見えてるか? 



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