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それはきっと、ただただ羨ましいのだ。

兎に角、話をしたくなる時がある。
しかも図々しくも“話を聞いてほしい”のだ。
会話というよりも、かなり押しつけモード。
今日はその発作が出てしまいあれこれ話してしまった。

私が子どもの頃からお世話になっている第二のママみたいな人に話を聞いてもらう。お届け物があったため、我が子と一緒にご自宅にお邪魔してここ最近のあれこれを聞いてもらった。

私は話しながらも考えていた。
言いたいことや聞いてほしいことはいつだって山のようにある。
その物事やその対象を攻撃したいのではなく、握り潰したいわけでもなく、ただただ羨ましい気持ちで溢れかえっていることに気がついた。いつだって「ズルい〜!」や「いいなぁ〜!」と、羨ましく思う対象を横目で見ながら通り過ぎることしかできない今の自分に対してもどかしさを感じているのだろう。

帰宅してからもぼんやりと考えていた。
その物事と同じことをしたいわけではない。
仲間に入れてほしいわけでもない。
ただ、その計画や選択ができることが羨ましいのだろう。
人それぞれ優先順位がある。その駆け引きの先に予定が確立される。
もはや、そのチャンスやきっかけが今の私にはあまり起きないことに寂しさすら感じている。

自分が普段できないことを計画している存在。羨ましくなっちゃうね。
どれくらい羨ましい?そんなにも羨ましいか?
今、こんな気持ちだからと言って次のチャンスを狙ってそのことを熱心に考え続けられるだろうか。
いや、きっとこの羨ましい気持ちは一時的なものである気がする。
ちょこっと、寂しい気持ちが押し寄せているのでしょうね。

は〜〜〜。人様の人生を身勝手に観察して、身勝手に羨ましがっている。
ほどほどにしないといけませんね。
私は今、少々疲れている。

その先にある、共に達成する約束の前に訪れた楽しそうなイベントを横目に通り過ぎる私。
格好よく、お上品に、なかなか通り過ぎることができない私。
外からフィルターの容量が見えない掃除機で「いいなぁ」「いいなぁ」を吸い集め、パンパンに膨れ上がった「いいなぁ」。

乗り越えていかなければならない大人の階段?
大人同士の間に突如現れる“大人の中の大人の階段”のお話。
だいぶ育った気でいたけど、まだまだお子ちゃまな私だな。

だけどやっぱり、人と話せることって、
会話ができることって、有難いことなんだなあ。
Nさん、今日はありがとう。

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