終わる家、始まる家

コンテストに応募し、昨日結果発表があった。
いくつかあった賞のうち、見事にひとつにもひっかからなかったのでこちらにアップします。

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「終わる家、始まる家」

 しまった。一眼レフカメラを持ってこれば良かった。取りに戻ろう。ああ、でもバッテリーを充電しなくちゃいけない。今から充電していたら、到着する頃には暗くなってしまう。このまま行くしかない。スマホのカメラでも十分だろう。

 そのまま駅に向かい、各停の、1時間に4本の電車に乗った。その後、1時間に2本の電車に乗り換えて祖父母の家に行く。

 祖父母の家に行くのは、今日が最後になる。

 幼い頃から祖父や両親の運転する車で、ひとりで電車に乗れるようになってからは今日みたいに本数の少ない電車を乗り継いで。何百回行ったのかわからない、いつも行くのが楽しみで仕方なかった祖父母の家。そこへ行く最後の日がやって来てしまった。この日が来ることは必然だったのに、一度たりとも、薄らと考えたこともなかった。

 電窓からだんだん閑散としていく見慣れた景色を見ていると、見慣れた景色なのに鼓動が強く速くなっていった。

 家を出てから約1時間、無人駅で降りる。高架になっている駅のホームに立ち、すぐそこに見える茶色い家を暫く見つめてから、写真を1枚撮った。周りの家々よりも低い、重そうな瓦屋根に覆われた、陽の中にあるのにひっそりとした陰のような家。あの家が、もうすぐなくなってしまう。

 鞄から門扉の鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。この鍵は手にする度、いつも疑問に思うのだが、門の鍵とは一般的にこういうものなのだろうか。絵本に登場する宝箱の鍵みたいなメルヘンな形。こんなことを思うのも今日で最後か。玄関の戸を別の鍵で開け、家の中に入った。

 玄関からまっすぐ廊下が続く。先は暗くて見えない。靴を脱いで、古いがつるつると反射する、祖母が半世紀以上も拭き続けた床を踏む。
 廊下を中心に、縁側のある大きな居間、応接間と呼ばれた祖母の部屋、テラスに面した祖父の部屋、窓のない大きな和室、あまりにも広すぎる台所と、奥にあるために存在を忘れがちな物置部屋から成る家。そこそこ大きなこの家にはもう、住人は居ない。

 幼い頃から自宅より好きだったこの家。週末にはしょっちゅう泊まりに来た。私が初孫だったので、存分に甘やかしてくれたし、弟と妹が居てうるさくしっちゃかめっちゃかだった自宅とは正反対で、家の中が片付いて凛としていてとても心地良かった。日中は玩具を広げ、広告の裏に絵を書いて、と好き放題遊んでも、ある程度自分で片付ければ夜になる頃には祖母が畳の上を箒できれいに掃き、毎晩リセットされて整えられることが好きだった。

 3歳になる頃には自宅に帰ることを拒み続け、10日間ほど泊まり続けたこともあった。毎日、夕刻になると「今日はどうするん?」と祖母に訊かれ、私は来る日も来る日も「泊まる」と答え続けた。「それならお母さんに電話しなさい」と言われ、黒電話のダイヤルを回した。

 小学生になると、その頃はまだ土曜日も午前中は授業があったので、一旦自宅で昼食を食べてから泊まりに行った。いつもきまって、こたつの上には赤鉛筆でいくつかの丸が付けられた新聞があった。サザエさん、ちびまる子ちゃんなどのアニメ番組に大きな丸が付けられたテレビ欄。私が観たいであろうテレビ番組に祖父が印を付けておいてくれた。

 高校生くらいになると、さすがに泊まることはなくなっていったけれど、それでもたまの週末に訪ねると、やはり新聞には赤鉛筆で丸が付いていた。テレビ欄の子供向けアニメ番組ではなく、私の通っている学校や、私の好きな分野についての記事が大きく赤鉛筆で囲われていた。

 祖母の時も、祖父の時も、この家で葬式を挙げたし、祖母はこの家の和室で死んだ。葬式の度に僧侶は、最近は自宅で葬儀をする人はめっきりいなくなったと繰り返した。

 みたらし団子を持ってきてくれる約束をしていた近所の人が訪れるも、門の鍵が開いていないからおかしい、と連絡をくれて発覚した祖母の死。居間に残された卓上カレンダーの祖母の命日となった日付の欄には「みたらし」と震えた文字で書かれていた。

 葬儀から暫くの後、和室の床を剥がしてみると、基礎の木が腐食しており地面まで届いていなかったことがわかった。葬儀の最中、畳が抜けて喪服姿の親戚一同が床下へ落ちていたかもしれない、と思うと背筋が凍った。

 少しずつ修繕を加えてきたが、祖父母が他界してもうすぐ10年が経とうとしているのでやむを得ないし、これも世代交代ってやつなのだろう。来週には取り壊され、この土地には私の弟家族が家を建てる。

 陽が入るようにすべての部屋の雨戸を開けた。

 一番多くの時間を過ごした居間。時が止まったような風貌のシャンデリアがぶら下がる応接間。葬式を挙げた、がらんとした和室。その上部をぐるりと囲む欄間。祖父の部屋の、幾何学模様のようなおかしな模様の織物壁紙。木製の風呂蓋がある、丸いタイルが敷き詰められた風呂場。昔、泥棒にこじ開けられたという勝手口。子どもの頃に走り回った、だだっ広い台所を写真に撮った。

 祖母の葬儀の準備中、葬儀屋さんに「おばあちゃんは料理の好きな人だったの?」と訊ねられた。私は質問の趣旨がわからず、「特別に好きというわけではなかったけれど、料理は毎日していましたよ」と答えた。「台所がすごく広いからさ、料理の好きな人だったのかなと思って」と言われて、この家が移築された家であることを思い出した。

 今でこそ全国的に名の知れた家具メーカーだが、その頃はまだ地場産業だった会社の当時の社長の家を祖父が友人と一緒に買い取って、半分をこの土地に移築した。台所は友人側が買ったもう半分にあったのだろう。元の用途と違う部屋の使い方をしているので台所が広くなってしまったのだろう。なので、食卓テーブルからダイヤル式チャンネルの小さなテレビまではかなり距離があり、画面はより小さく見えた。カラーではあったが、色合いはモノクロに近かったそのテレビで、昭和天皇崩御のニュースを祖父母と一緒に食卓を囲みながら見た。

 広い台所の隅に追いやられていた、夏用の建具も写真に撮った。ラタンの涼しげな建具の一部には、花の模様に切り抜かれた板が嵌っている。そこから〝蚊〟が入らぬように、と祖父が花弁の形をした全ての穴をセロハンテープで塞いでいたのを思い出した。

 殆どのものは処分され家の中は殺風景だったが、食器棚にはまだ細々としたものが残っていた。何かこの家に最後まであったものが欲しい。引き出しを次々と開けていくと、金属製の小さなミルクピッチャーがふたつ出てきた。これを持ち帰ることにし、ティッシュに包んだ。

 最後を見届けるために解体作業を見に行こうとしたが、それはまるで火葬の途中を見てしまうことと同じに思え、見てしまったことを後悔するのではないかと思ってやめた。

 次にそこに行った時には、当たり前のように弟家族の家が建っていた。

 鍵の開閉方法が全くわからないハイテクな玄関扉。天井で回るシーリングファン。壁のように大きなテレビ。使い易さが追求されたシステムキッチン。同じ場所なのに、こうもすっかり新旧は入れ替わってしまうのかと思ったが、リビングに敷かれた藤の敷物だけは、祖父母の家の居間でずっと使われてきたものだった。

 私にとっての甥と姪を含む弟一家が、祖父母が暮らしていた場所で新しい暮らしを始めた。まだ保育園に通う幼い、曾祖父母に会ったこともなければ、曾祖父母の存在すら知らないふたり。

 世の中の流れに乗り、私も普段の買い物はキャッシュレスで済ませるようになったが、甥と姪のために玩具や服を買う時だけはジップロックの小さなビニール袋に入れた現金から支払っている。この現金は、毎年2回出る僅かな額の株の配当を貯めていったもの。株には何ら知識もないが、祖母が生前に私の名義で購入してくれた。以前は亡き祖母からの年に2回のお小遣いという意識だったが、甥と姪が生まれてからは、90歳目前まで長生きしたのに曾孫に会えなかった祖母も玩具や服を買ってやりたかっただろうと思い、ジップロックに入ったお金から支払うことで間接的にではあるが、ここに住んでいた祖母がここに住んでいる曾孫に買ってあげたということに密かにしている。

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