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長崎出張 建築と夜景

帰りの飛行機で、窓の下に大阪の夜景を見ながら、その光の帯をかたどる道や闇の帯をかたどる川から、どこの街だろうと考えるけれど、結局よく分からないまま、ふらふらと機体は高度を下げていく。我が家の天窓からは空港へと降り立つ飛行機が見えるのだが、密集市街地に佇む我が家を見つけられた試しはなかった。

県庁でのプレゼンを終えたのは2時半すぎだった。最終の飛行機までは4時間半くらい。3時間は街をぶらつく暇があった。仕事はいくつか溜まっていたが、いずれも長崎の街を前に取り組むほど切羽詰まるものでもなかった(たぶん)。
日建設計の県庁を出て、マイケル・ロトンディのドラゴンプロムナードや高松伸のフェリーターミナルといった建築家たちの怪作を通り抜け、隈研吾の長崎県美術館で一休みし、出島の横を通り過ぎ、白井晟一の十八親和銀行をパシャパシャ撮りまくり、バスターミナルに着く頃にはほとんどバッテリー切れに近かった。
隈研吾の長崎県美術館は石の格子が角度によっては細いルーバーに見え、ぽっきりと折れそうな危うさが繊細さを上回り、そこに何の意味があるのだろうと疑いたくなった。水景を取り込んだ屋外空間の豊かさに比べて、カフェもミュージアムショップも取ってつけたような設えに思えた。
対比的に石垣のような見るからに重たい石が貼られた白井の銀行は、車通りに対して門型フレームと水をもってバッファをつくり出し、賑わいやら親密さやら軽さといった現代的な価値観から遠い志向を体現していた。そこにはあの哲学家の意思が感じ取れた。雨樋のデザインが雨を期待させる。
いずれにせよ、建築学生のように消費して疲弊した僕は重たいカバンを引きずって、バスに乗り込み、空港に向かった。
空港ではずいぶんと悩んでカステラを選び、どこで食べても大体美味しいチャンポンを食べた(前回と同じように)。
すでに真っ暗な滑走路を飛行機は闇雲に走り出し、やがてどういう仕組みか空に吸い込まれて高度を上げていく。
寝たり目覚めたりして一時間も経たないうちに眼下には大阪の夜景が広がった。
その灯りの一つひとつに人間の欲望や営みや暮らしがあると想像されると、夜景はいつもとてつもなく美しく感じられた。ヒトが発明したものでこれほど美しいものはないと思う。都会では星空が見えない代わりに満天の夜景が天の川だ。

昨日ここでラーメン食ったのがはるか昔のようやなぁと先輩と笑いながら、空港をあとにする。
我が家まで、あと少し。

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