見出し画像

鴫野考 公園

公園で子どもが友だちと遊ぶのを見る。
子どもが少なくなり、小学校が1学年2クラスになっても、夕方や休日には子どもたちの笑い声でにぎやかになる。古いまちということもあり、鴫野周辺の公園には最近の公園にあるような複合遊具ではなく、コンクリートで作られた昔ながらの皿の形をした滑り台がある。危ないけれど、楽しいのは大人たちもよく知っている。
道が狭く、古い木造家屋が建て込むまちでは、防災面、環境面、コミュニティ面、あらゆる面で公園の存在意義は大きい。
近年Park-PFIと称して、公園にカフェをつくり、駐車場をつくり、稼げる公共空間として活性化させる例が増えているが、確かに市街地においては貴重で、子どもの遊びや老人の憩いや緑を生やしておくだけでは勿体ないと思う気持ちも理解できる。それなりに維持にお金もかかることだろう。
もし何かこの普通だがよく愛されている地域の公園にもアイデアをくださいと集めれば、カフェをつくる、キッチンカーを呼ぶ、イベントを催すといった意見が集まり、採算性はともかく試しにやってみれば多くの人に喜んでもらえるだろう。
しかし立ち返り、もしこの公園に解決すべき課題があるとすれば、それは、子どもと老人くらいしか使うことがなく、遊ぶか憩うくらいしか使い道がないように感じること、ではないかと思う。
実際には緑があることで生物が生息し、大気は浄化され、周辺の地価に貢献している。災害時の避難場所や延焼遮断帯としての機能もある。それらの価値はほとんど顕在化されていない。
しかしそれでも勿体ない、あるいはまちを活性化させるために公園をリソースとして使いたいというのであれば、子どもや老人以外の世代や属性の人がここを訪れ、使うようにすることが一番重要な気がする。ヨーロッパの街で見かける公園のように。
例えば、本を読みに来る。音楽を奏で、聴きに来る。友だちと待ち合わせ、お茶やお酒を飲みながらお喋りする。身体を鍛える。ボードゲームや卓球に興じる。草木を育て、花や実を摘みに来る。お弁当をみんなで食べるのもいい。どれも今でも出来ることばかりだ。だが、普段公園には立ち寄らない若者や中年らがそこに居心地のよい場所を見出してくれれば、カフェやイベントがなくても、ぐんと公園の価値は変わる気がする。(もちろんそこに至るまでに仕掛けも仕組みもいるだろう)
日常生活のほんのささいな行為が気軽に無料でできれば、それらをみんながこぞって楽しめたら、小さな多様なアクティビティが重なり、誰もかもにとって開かれた公園として、もっと魅力ある寛容で公平で楽しい場になるだろう。
パブリックスペースのほとんどないこの密集市街地だからこそ、公園にはそういった新しい場になることを期待してしまう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?