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まわる土器・まわらない土器

縄文土器には、まわる土器とまわらない土器がある。少し前からそんなことを考えています。

「まわる」「まわらない」の定義

どういう土器が「まわる」のか、どういう土器が「まわらない」のか。まず、そこを説明したいと思います。私が考える「まわる」土器とは、簡単に言えば、真上から見た平面図が下のようになる土器です。

まわる土器の模式図

これらは、次の条件を満たします。

  • 左右非対称の、複数の突起(把手)をもつ

  • (360°未満の)ある角度だけ回転させると元の形と重なる

  • 鏡写しの図形とはどんな角度回転させても重ならない

数学的に言うと、回転対称だが線対称ではない、ということになります。もちろん、縄文土器は厳密に正確に作られているわけではないので、だいたいこの条件を満たしているように見える、という話です。また波状口縁の土器の頂部も突起に含めて考えることにします。

逆に、「まわらない」土器には二通りあります。

まわらない土器の模式図(タイプA)

一つは、(360°の倍数以外の)どんな角度回転させても元の形には重ならない土器です。回転対称ではない土器、とも言い換えられます。これをタイプAと呼ぶことにします。

まわらない土器の模式図(タイプB)

もう一つは、元の形と重なる回転角度(360°未満)があるが、裏返しても重なってしまう場合です(左・中)。回転対称かつ線対称に相当します。これをタイプBと呼びます。平縁で口縁に突起のない土器(右)もタイプBに含まれると考えます。

まわる土器・まわらない土器の実例

火焔型土器

火焔土器(新潟県 馬高遺跡)

まわる土器の代表例が縄文中期中葉~後葉の新潟の火焔型土器です。強い方向性をもつ4つの鶏頭冠突起が、土器を90°回転させれば重なり合います。さらに、それ以外の鋸歯状突起・袋状突起・眼鏡状突起も90°間隔で配置されています。

火焔型土器(新潟県 諏訪前遺跡・左から2番目)と展開写真

上の展開写真でも、1区間分だけ写真を横にずらせば、鶏冠状突起から胴部の文様までが、ほぼ寸分たがわず一致します。土器全体が上から下まで徹底して「まわる」ことを際立たせたデザインになっていると言えます。

阿玉台式土器

縄文中期中葉に主に東~北関東に分布した阿玉台式土器は、平縁のタイプも含みますが、3~4枚の大きな板状の把手が特徴的です。

阿玉台式土器(左:栃木県 添野遺跡 右:千葉県 根郷貝塚)

上の写真のように把手が左右対称の場合は、まわらない土器(タイプB)ということになります。

阿玉台式土器(左:福島県 寺前遺跡 右:群馬県 房谷戸遺跡)

一方、ねじれたスクリューの羽根のような装飾が把手の一つ一つに付け加えられるタイプのものがあります。このタイプの土器は、90°または120°回転させれば隣の把手と重なりますが、鏡写しの形とは重ならないので、まわる土器に含まれます。

勝坂式土器

阿玉台式と並んで、縄文中期中葉に中部高地(長野・山梨)から西~南関東にかけて分布した勝坂式(井戸尻系)土器も、派手な突起が目立ちます。ただし、どちらかというとまわらない土器のほうが多いようです。

勝坂式土器(左:埼玉県 下野谷遺跡 中:埼玉県 西原大塚遺跡 
右:山梨県 津金御所前遺跡)

まず、大きな突起が一つだけ付く場合、あるいは異なる形の突起が対向して付く場合があります。これらはタイプAのまわらない土器です。突起は人面・獣面・蛇体などが多く、物語性が込められた装飾と言えます。

勝坂式土器(左:長野県 居沢尾根遺跡 右:埼玉県 加能里遺跡)

また、獣面などの大きな突起を4つ均等に配置した土器(左、多喜窪タイプ)もよく見られます。突起は左右対称のことが多く、タイプBのまわらない土器になります。小さめの突起が4つある右の加能里タイプも同様です。タイプBの土器としては、突起のない平縁の勝坂式土器もかなりの比率です。

勝坂式土器(左:長野県 下ノ原遺跡 右:埼玉県 水窪遺跡)

それでは勝坂式にまわる土器が皆無かというと、土器個体のレベルでは、まわる土器も見つかります。左の土器は一見いびつな形に見えて、デザインに規則性があります。口縁に色々な形の小さな突起がたくさん並んでいます。赤い直線で示しましたが、対向する位置の突起同士には対応関係があって、180°回転すると重なり合う、まわる土器になっています。また右の土器は突起が4つありますが、よく見ると突起が非対称で、蛇の口のような形が片側に寄っています。そのためこの土器は90°回転で重なる、まわる土器です。この例のように勝坂式土器は、「気をつけて見れば時々まわる土器」のようです。

焼町式土器

縄文中期中葉の長野県~群馬県、勝坂式土器と阿玉台式土器の分布の境目近辺の遺跡から、焼町式土器が出土します。粘土紐の隆帯とへらで刻んだ沈線の文様で器面をびっしりと埋めた土器です。初期は主に平縁ですが、隆帯の端に貼り付けた円文が次第に口縁からせり出して、最盛期にはかなり目立つ4つの突起になります。

焼町式土器(長野県 川原田遺跡)の実測図と展開図
(図は文献[1]より)

この突起が、勝坂式と同様にわかりにくいけれども、非対称で90°回せば重なり合い、まわる土器になります。展開図のように、斜めに流れる胴体の文様につられて、2個一組の眼鏡状の円文が傾いたり偏ったりした結果、非対称の突起になるようです。

焼町式土器(左:群馬県 道訓前遺跡 右:新潟県 堂平遺跡)

焼町式のまわる土器は、勝坂式よりは頻繁に見られます。上の写真の2つの土器は、どちらも橋状突起から連なる非対称の突起をもち、90°回せば重なる、まわる土器です。右の堂平遺跡は火焔型土器の本場でもあります。また左の道訓前遺跡からは、鶏頭冠突起によく似た非対称の突起をもつ火炎系土器が出土しました。焼町式土器と火焔型土器で、まわる土器のデザイン原理を共有する文化圏を形作っていたのかも知れません。

これ以外の時代の土器

加曽利E式土器(左:栃木県 ハットヤ遺跡 中:埼玉県 諏訪山遺跡 
右:栃木県 真岡市)

縄文中期後葉の関東の加曽利E式土器は、阿玉台式・勝坂式に続く土器です。突起のない平縁が優勢で、初期は大きな突起をもつ土器もありますが、ほとんどはタイプAまたはBのまわらない土器です。時代が下ると波状口縁のタイプも現れますが、やはりタイプBのまわらない土器に相当します。ただし加曽利E式の親戚の中峠式土器には、まわる土器がときおり見受けられます。

五領ヶ台式土器(左:長野県 曽利遺跡 右:同 久兵衛尾根遺跡)

さかのぼって、阿玉台式・勝坂式の直前、縄文中期前葉の五領ヶ台式は、装飾や文様がやや地味な土器で、線対称を守るデザインのため、タイプBのまわらない土器になります。

縄文前期 諸磯式土器(山梨県 北杜市)

これよりさらに前、縄文前期までの土器は、関東甲信越の範囲で私の知っている限りでは、まわる土器は見当たらないように思います。

縄文晩期(左:東京都 小豆沢貝塚 中:埼玉県 真福寺貝塚)
右:安行式土器(群馬県 谷地遺跡)

また加曽利E式以降、縄文晩期までの土器も、写真のようなタイプBのまわらない土器はありますが、まわる土器は心当たりがありません。

火焔型土器のまわり方

1万年以上におよぶ縄文時代の中で、まわる土器が作られたのは、おそらく縄文中期中葉~後葉の短い期間だけに限られます。その中で新潟の火焔型土器のまわりっぷりは、他の縄文土器から突出しています。

火焔型という類型に属する土器がほぼ例外なく、まわる土器の条件を満たす点、どこから見ても一目瞭然でまわる土器であることが判定できる点、これらは火焔型土器のみの特質と言っても過言ではありません。そこで、まわる土器という観点から火焔型土器をもう少し詳しく見てみたいと思います。

火焔型土器(新潟県 笹山遺跡 左:国宝指定番号 No.11
右:同 No.4)

まず、火焔型土器のまわる方向、つまりは鶏頭冠突起の向きですが、右向きと左向きが半々くらいで特に決まっていなかったようです。上の写真で右と左の土器では鶏頭冠突起の上の鋸歯状突起がどちら側にあるかが逆転しています。少し意外ですが、まわることは重要でも、まわる向きには意味がなくて無頓着だった様子です。

王冠型土器(左・中:新潟県 馬高遺跡
右:同 道尻手遺跡)

次に、火焔型土器の兄弟分とも言える王冠型土器についてです。波状口縁の王冠型土器は一見するとタイプBのまわらない土器のように見えます。しかし、ほとんどの場合は口縁の頂部の左側にえぐりがあって、非対称の突起をもつ、まわる土器です。興味深い点は、王冠型土器の場合はえぐりの位置が左側と決まっていて、まわる向きが決まっています。上の写真では左の土器はえぐりが深く、まわる土器だとはっきり分かります。えぐりは次第に退化して、中央の土器のように痕跡のみにとどまるものが多くなります。最後は右のように対称の突起となって、タイプBのまわらない土器になります。王冠型では、まわる土器への指向は火焔型と比べてかなり弱いと言えます。

火焔型土器はどのようにまわるようになったか、あるいは新潟でまわる土器はどのように作られるようになったか、というのも興味深い点です。

まわる土器の原初的形態(新潟県 馬高遺跡)(図は文献[2]より)

火焔型土器の代表的な遺跡の一つである馬高遺跡から、上の写真のような、原初的なまわる土器と言える土器が出土しています。円環と隆帯を組み合わせただけのシンプルな突起ですが、非対称で方向性をもち、180°回せば対向する突起と重なります。まわる土器を作りたいという指向が、鶏頭冠突起が現れるよりも先に、すでにあったわけです。それを表現するための手段として、最初はこんなに簡単な突起だったのが、次第に鶏頭冠突起へと洗練されていったのでしょう。

初期の火焔型土器(右:新潟県 山下遺跡 左:新潟県 沖ノ原遺跡)

やがて、まわる土器のデザイン原理に沿って、鶏冠状突起が作られるようになります。左はまだ形が未完成で突起も2つだけですが、右では数が4つになり形も完成形に近くなります。

そうして発展していった火焔型土器が最後はどうなるかというと、最盛期に突然消滅する、という印象をもっています。突起が次第に上に伸びて高くなり、一番高くなったところで急に作られなくなる。次第に退化する過程はなかったようです。

左:塔ヶ崎類型(新潟県 馬高遺跡)
中:栃倉Ⅰ式土器(同 中道遺跡)
右:栃倉Ⅱ式土器(同 沖ノ原遺跡)

その後で新潟で作られた突起の大きな土器としては、栃倉式の土器が残りますが、これは火焔型の跡を継ぐものではありません。東北の大木式土器の系統で、火焔型土器と並行して塔ヶ崎類型→栃倉Ⅰ式→栃倉Ⅱ式と発展してきました。突起の形もほぼ左右対称で、タイプBのまわらない土器に近いものです。ここでまわる土器の流れはほぼ終焉となります。

新潟の周辺地域では、火焔型土器の影響を受けた火炎系土器が作られます。その中で福島の奥会津の火炎系土器には面白い現象が見られます。

火炎系土器(左・中:福島県 石生前遺跡 右:同 石神平遺跡)

火炎系土器は普通、鶏頭冠突起とよく似た形の突起をもっています。ところが、上の3つの土器の突起は鶏頭冠突起とは全く異なる形です。しかしながら、これらの突起は左右非対称で、90°または180°回転させれば隣または反対側の突起と重なります。鶏頭冠突起を表面的に真似るのではなく、まわる土器のデザイン原理を違う形の突起で実現していると言えます。

石生前遺跡の火炎系土器には、普通の鶏頭冠突起をもつ土器もあり、円筒状の突起をもつ、タイプBのまわらない火炎系土器もあります。単に火焔型土器の影響を受容するだけではなく、独自の火炎系の文化を築いているように感じられます。

皆様も、縄文土器をご覧になるときに、「まわる・まわらない」に注意して頂ければ、新たな発見があるかも知れません。最後までお読み頂き、ありがとうございました。

参考文献

[1] 御代田町教育委員会 「御代田町埋蔵文化財発掘調査報告書22:川原田遺跡」御代田町教育委員会 (1997)
[2] 津南町教育委員会 「津南町文化財調査報告書59:堂平遺跡」津南町教育委員会 P301~333(2011)


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