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自由を手にするために、最初にやる事って何だと思う?

あなたは自分の思い通りにやりたいことができる時間も場所もあると幸せを感じますか?

何でも思い通りになることはないが、思い通りになれるかもしれない時間と場所を手にし、行動できるだけの状態でいたいはずです。

もし仮にこの状態を「自由」と表現するならば、きっと自由でいたいと思う。

自由になるためには思い通りにできる時間と場所が不可欠だが、どうすればよいのでしょうか?
反対に、自由になれない時間と場所を確保できないのは何がそうさせているのだろうか。

自由という言葉自体があまりにあいまいなので答えにくいかもしれないが、ここでは単純に、あなたが思い通りに選択できる状態を「自由」と定義しておいてください。

たとえば、今夜の晩御飯は何が食べたいですか?とか、ささいなことでもあなたに選べる権利があるという状態です。

では、ひとつ試してみましょう。

一貫3千円の大トロを高級寿司屋で食べるのと、一貫300円の大トロもどきを回転寿司チェーン店で食べるのではどちらを選びますか?
当然支払うのはあなたです。

もし、3千円の大トロを選ぶことができるなら、それはお金に余裕があるからとか、単なる見栄でしかないとか、それとも本物の価値を味わいたいからなのか。
それとも、3千円の大トロでないと満足できない水準が高まったしまった依存心のようなものがあるのかもしれません。

もうこうなると怖いですよね。
なにせ最低でも3千円の大トロでなければならないのですから、それ以下だと満足できないということになります。

一方で、一貫300円の大トロもどきの安いお寿司を選択するのなら、それはお金に余裕がないからとか、そんな身分でないと思っているとか、それともたとえ300円のもどきでも「おいしい」と思えるからなのか。
それとも、300円の大トロに満足しているにもかかわらず、「あ~ぁ。どうせ自分は本物の大トロなんて食べられないわ・・」と、ないものねだりの悲観的な気持ちが心の片隅にあるのかもしれません。

そうなると怖いですよね。
何が怖いかって、あなたの自由はそこで線引きされてしまっているからです。
いわば、誰もがなんとなく思っている「何だかんだで・・・お金・・・だよな。」という普遍的な価値観に敬慕し屈してしまうのだ。

たしかにお金があればいろんなモノを手にすることができるし、夢のようなことが可能になる。

ですが、お金をたくさん所有し、いろんなモノが手に入ったとしても、果たして「自由」になれるのだろうか?

世の中には「私は自由です」といって幸せになっている人も大勢いることは知っているが、その人達は永遠の自由を手にしたのだろうか?

残念ながら、永遠に自由になれない。
それどころか、永遠に不自由になるといっても過言ではない。

理由はあきらかです。「慣れる」からです。

大儲けして高級マンションに引っ越し、高級車を何台も所有し、ブランド品を身に纏う、そんな煌びやかな光景がメディアに映るので、いかにも自由を手にした幸せ者に思ってしまうけど、高級マンションも高級車も必ず慣れて飽きてしまうものです。

冒頭の、一貫3千円の大トロの話を思い出してください。
お金があるから高級寿司だろうと自由に選ぶことができてはいるが、最低でも3千円の大トロでなければならないという自由を奪っていますよね。

よ~く考えてみてください。
3千円の大トロが最低水準でそこからの自由を選ぶことができるのは、3千円以上の更なる上の超高級大トロみたいな、手にしずらい領域でしか選べません。
超絶高級大トロを手にしたら、次は超ミラクル最高級大トロを手にしないといけない。
超ミラクル最高級大トロを手にすることができたら次は、奇跡の神が借りてきな…ってもうわからんわ。どんなマグロやねん。

どこまでも尽きない欲望を追い求める。これを自由になれたと言えますか?

まるで、寒くて狭い山の頂上で見晴らしはいいが、電気も水道もないし、酸素が薄くて呼吸がしにくいので激しく動き回ることもできない。
おまけに標高が高いので気温が低く、ブルブル震えながらじっとしているしかない。そんな状態のようにも思えますがどうでしょうか。

多くの人は、たくさんのお金を山積みにした「金塊の山」という名の山頂に立ちさえすれば、その後「金塊の山」の踏破者として今後の自由を手にし幸せが保証されると勘違いしているのではないだろうか。

残念ながら、人はどれだけワンダフルなモノを手にしたとしても、まちがいなく「慣れる」生き物です。
お金や高級品も、すぐに慣れてそれが当たり前になってしまうのだ。

慣れてしまうとしばらくしてから「飽き」がきます。
そうなると、「もっと、もっと」とさらにファンタスティックなモノを欲しがるに違いない。

モノというのは、上級になればなるほどその数は少なくなるので、選ぶ自由を奪われてしまうということです。

お金やモノを手にした瞬間は、幸せになることはあっても、その時点で自由は線引きされ、限られた数の中でしか選べない状態になってしまうのだ。

自由を手にするために「モノ」を追求しても、永遠に幸せになれないし、自由にもなれない。

とはいえ僕は何も、お金もモノも持たないで貧欲なミニマリズムでいこうなどと言っているわけではない。

必要最低限のお金とモノがそろていないのなら、それを手にする努力は必要です。
ここでいう「必要最低限」というのは、暮らしていけるだけの生活必需品ではありません。

「元々あった幸せだと感じることができる平常な心の状態」です。

不安や心配ごと、悩みを抱えた状態でいては、自由になれません。
元々あった幸せだと感じることができる平常心でいられるからこそ、心の自由を得られるのです。

自由とは、望んでいるモノを手にすることではなく、持っているものを望んでいる状態にすることです。

必要最低限の幸せを感じていたその望む状態を保つ、または、戻すことこそ自由でいられる。

一つ、また一つとプラスを加えることよりも、本来のゼロの状態でいられるからさまざまに選ぶことができる自由を得られるのです。

「モノ」というのはそれに価値があるのではなくて、モノの価値をどう受け止め、取り扱える自分でいられるかに価値があるということ。

モノに価値を置くと自分を「エライ人」に仕立て上げてくれるかもしれないが、そんな頼りがいのあるモノは慣れて飽きてしまう。

最後に、あなたに自由を手にし、幸せを感じることができる術をお伝えしたいと思います。
人に備わっている「慣れ→飽きる」というどうしようもない仕組みに対抗できる術があります。

それは「感謝」です。

は??感謝ってその言葉はもう聞き飽きたわ!
って思ったかもしれないが、もう少しだけ聞いてください。

感謝だけが、今持っているモノをいつもと同じ当たり前で飽きてしまうことを防いでくれるのです。
感謝することだけが、すでに「飽きている」モノを、「ありがたい」と思いなおし、新鮮な気持ちで日常を見直させてくれる。
その唯一飽きるを防いでくれる感謝をするためにはどうすればいいのでしょうか?

そう、「捨てる」ことです。

必要最低限に持ってしまったモノや肩書などを思い切って捨てることで心から感謝することができる。

モノは手にすることで感謝することはできないが、モノを手放すことで初めて感謝することができるのです。

自由を得たいというならば、必要最低限のモノに感謝し、
つねに心をゼロの状態に保つことです。

自由を手にしたいのなら、何かを手にすることばかり考えないで、
まずは、余分なモノや考え方、地位と名誉、肩書きの鎧を「捨ててみる」ことをやってみてほしい。

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