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LGBTQI+の方の表現の自由に関する近時の欧州人権裁判所判例2つ:審査密度を高めた「多元的共存、寛容さ、寛大さ」というコンセプト。

1. はじめに

昨月、本記事のタイトルで欧州の弁護士向けにセミナーを行い、その準備のためにいくつか欧州人権裁判所の判例を読んだのですが、事案はどれも興味深く、いくつか素晴らしいパンチラインも含まれているので、忘れないうちに書き留めておこうと思います。裁判所は、重要な問題について、民主主義に不可欠の特徴で、欧州人権条約に内在するとされる「多元的共存、寛容さ、寛大さ」(the pluralism, tolerance, and broadmindedness)という概念をうまく用いて踏み込んだ審査を行い、自信を持って条約違反の結論を下しているように感じられます。日本のLGBTQI+の方の権利や表現の自由のアドボカシーのお役に立てたら嬉しいです。

2.    欧州人権条約と欧州人権裁判所とは何か。

欧州人権条約(European Convention on Human Rights)は、欧州における人権保障を確保するため、1953年に、当初批准した12カ国の間で発効し、現在は、欧州評議会(法の支配、民主主義、人権保障の実現を目的とする、EUとは異なる地域的機構です。)のメンバー46カ国全ての国が批准しています。なお、ロシアは2022年6月に欧州評議会から除名され、その半年後に欧州人権条約から脱退しました。イギリスはEUからは脱退しましたが、欧州評議会のメンバーシップには影響はなく、欧州人権条約の批准状況には変化はありません。

同条約は、発効当時、1948年の国連総会で採択された世界人権宣言の自由権部分に相当する権利を保障しています。追加議定書により保障する人権が随時追加されていますが、保障する人権は自由権が中心で、国連自由権規約(1976年に発効)の保障する人権と広く重なります。

同条約の特徴は、欧州人権裁判所を作り、強い執行メカニズムを設けたことにあります。批准国による同条約違反により人権を侵害された個人は、国内の救済手段の消尽などの訴訟要件の充足を条件に、同裁判所に訴えを提起して救済を求めることができます。判決は法的拘束力を持ち、訴訟の相手方である国は判決の履行義務を負うので、判決の不履行は直ちに違法と状態となります。自由権規約等の国連人権条約も、個人通報手続きを設け、自由権規約等の条約体が個人通報を受理し、双方の言い分を聞き、国への勧告を含む見解を発表することができます(訴訟ほど厳格な適正手続きが保障されない准訴訟として特徴付けられます)が、保全の勧告を除き、見解には法的拘束力はないと考えられているので(ただ勧告の不履行は、条約法に関するウィーン条約26条の条約を誠実に履行する義務の違反を構成する一つの証拠になりうると考えられています※)、見解の履行率は欧州人権裁判所の判決の履行率より低く、2023年の資料によれば、ざっくりと、欧州人権裁判所の判決の履行率は50から60%、国連人権委員会の見解の履行割合は三分の一程度というイメージのようです。※The Oxford Handbook of United Nations Treaties, 388, (Simon Chesterman et al. eds. 2019).

欧州人権裁判所には現在に至るまで多くの人権訴訟が提起されてきました。判例の数は多く、先進的な問題を含めトピックも多岐に渡るので、他地域の人権機構(米州人権委員会及び米州人権裁判所、アフリカの地域的裁判所の裁判所)は、欧州人権裁判所の類似事例の判断を頻繁に参照しています(ちなみに、個人の訴えを審査する権限を与えられた地域的人権機構が存在するのは欧州、米州、アフリカで、アジアには存在しません。)。国連機関も同じく、日本も批准する国際人権規約のモニタリング機関である国連人権条約体、人権理事会・特別手続きといった国連の政治的人権機関の事務方である国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)もまた、規範の伸張のツールとして欧州人権裁判所の判例を頻繁に参照しています。

私は仕事柄、国際人権法に依拠して表現の自由やプライバシーに関する主張を構築することが多いのですが、言いたいことをうまく支える人権規範が国連レベルで存在しない部分については、穴をパッチできるような欧州人権裁判所(または他の地域的人権裁裁判所あるいは国内裁判所)の判例がないか探しにかかります。例えば、欧州人権裁判所は権利ごとに重要判例をまとめたレポートがあり、定期的にアップデートされているので、一からネットで探索するよりも手間が省けて便利です(表現の自由に関するものはこちら)。また、表現の自由の重要判例については、コロンビア大のGlobal Freedom of Expressionのウェブサイトも便利です。

そのような必要がない場合でも、個人的には、欧州人権条約の判例は、読み物として面白く、また特に新しい人権問題を扱うものについては、その問題の所在や勘所を掴む上でためになる気がします。

3. 同性カップルのストーリーを描いた児童書のリコール、警告ラベルの貼付を違法としたMacaté v. Lithuania [GC] (2022)

事案:

原告はプロの作家で、小学生を対象とした6つのオリジナルのおとぎ話集を書きました。 各おとぎ話は伝統的なおとぎ話のモチーフに基づいていますが、様々な社会的少数者についてパートナーシップ関係(committed relationship)を交えて描いています6つのおとぎ話のうち2つは同性カップルを描いています。 2012年、国立大学であるリトアニア大学出版局は、「小学校低学年の子供たちに適しており、社会的に差別されるグループに対する寛容さを育むために必要な」本としてこの本を出版することを決定しました。

ところが、出版局は、2014年3月、国会議員からの圧力を受け、在庫を書店から回収しました(図書館に配布されたものは回収されませんでした)。 2014年4月、リトアニア当局は、同性カップルを描いた2つのおとぎ話には、同国の公共情報の未成年者への否定的な影響からの保護に関する法律に定められる「未成年者にとって有害と見なされる情報」が含まれていると判断し、本の頒布は禁止されないが、子どもに悪影響を及ぼすリスクの軽減策として「N-14」(「14歳未満の子供に有害となる情報が含まれています」という意味)の警告ラベルを貼るよう勧告しました。なお、 同法の第4条第2項16号では、当局が「未成年者にとって有害と見なされる情報」かどうかの判断基準の一つとして、「リトアニア共和国憲法における家族の創設と結婚の概念と異なる概念を奨励するもの」という基準を設定していました。同勧告を受け、2014年10月、大学は図書館に対して、本に「N-14」の警告ラベルを付けるよう要請しました。

2015年3月、当局の命令に従い、大学出版局は「N-14」の警告ラベルを付けた状態で本の頒布を再開しました。ただし、一部の配布チャネルでは、警告ラベルなしで本が公開されていました(2014年5月から11月まで、NGOがウェブページに警告ラベルなしで本のPDFをアップロードしていたほか、2014年12月には、NGOが警告ラベルなしで本の第二版を出版しました)。

本の作者は、国内裁判所に対し、大学出版局による本のリコールと警告ラベルの添付が、リトアニア憲法及び欧州人権条約の保障する表現の自由に違反するとして救済を求めましたが敗訴したため、欧州人権裁判所に提訴しました。

争点と判断:

実質的な争点は2つで、裁判所はそれぞれについて以下のように判断しました。
一部の配布チャネルでは警告ラベルなしで本が公開されていましたが、それでも、リトアニア大学による本をリコールし警告ラベルを付けることは、欧州人権条約第10条で保障されている言論の自由を制約するか →制約する。

②その制限は、欧州人権条約第10条が、制限が許されるための要件を満たしているか。つまり、(1)法律に根拠があり、(2)正当な目的を保護するために(3)必要なものだったのか(いわゆる三要件テスト)→リコールとラベリングは、(1)法律に根拠はあるが、(2)正当な目的を保護するためではなかったため、要件を満たさず違法である。

理由

(1)制約の有無について、特定のチャネルを通じて警告ラベルなしで本が利用可能であったにもかかわらず、下記三点のとおり裁判所は警告ラベルとリコールの与える実質的な影響を踏まえ、制約ありとしました。(私見ですが、特に三点目は、表現の萎縮効果を表現の自由の制約の有無の認定に用いている点で意味があると思います。また、ラベリングの問題点を指摘する二点目は、例えばSNSによる、表現の自由の保護を受けるが物議を醸しうるユーザー投稿について、批判を恐れて安易に警告ラベルの使用に逃げる、という対応に警鐘を鳴らすという意味で価値があると思います。)

・リコールは、リコールなしの場合と比べ本の読者への利用を制限した。
・警告ラベルは対象読者に本を読むことを思いとどまらせ、また、その保護者に子供に読ませることを思いとどまらせた。
リコール及びラベリングは応募者や他の作家が類似の文学を出版することを思いとどまらせるという、表現の自由の萎縮効果を生み出した(第182段落)

(2)許される制約にあたるかどうかの目的審査について、被告であるリトアニア政府は「他のカップルの形態の関係を犠牲にして同性カップルを促進するコンテンツから子供を守る」(第189段落)ことがリコールとラベリングの目的であると主張しました。他方、裁判所は、①そのような目的は本の内容に照らし認定し難く、②ラベリングの根拠法とされた公共情報の未成年者への否定的な影響からの保護に関する法律の立法目的が、その立法経緯に照らして「子供の同性カップルに関する情報へのアクセスそのものを制限すること」自体にあり、同法がこれまで同性婚に関する情報にだけ適用されてきたことから、同性カップルを描くコンテンツへの子供のアクセスそのものを制限すること」が目的だったことに「疑いはない」と力強く認定しました(第198段落) 。

次に、裁判所は、当該目的を正当と評価できるか、つまり、同性愛に関する情報へのアクセスを制限することは、子供の最善の利益に向けられたものとして正当な目的と評価できるかどうか検討し、正当と評価できないと判断しました。裁判所は多くの字数を使って、しかし自信をもって結論を導いています。理由をまとめると、

「子供は大人に比べ外部からの影響を受けやすい」ということで、出版物へのアクセスを制限することは許容される場合がある(第205-208段落)。
しかし、同性カップルを描いた資料を子供に触れさせること自体が子供に悪影響を与えるとする客観的なデータはない(Alekseyev v. Russia(2010)を引用)。
むしろ、子供が多様性の概念に触れることは「社会的包摂を促進する」(Bayev and Others v. Russia(2017)を引用)(第210段落)。国連等の国際機関、多数の欧州評議会加盟国、および異なる国の国内裁判所も同様の見解を示している。

結論部分にパンチラインがあるので、紹介します。

「多元的共存、寛容さ、度量の広さは民主主義の基本的な構成要素(筆者注:"hallmark" を構成要素と訳しましたが、よりよい訳語があるかもしれません)であり」(Dugeon v. UK(1981)およびBédat v. Switzerland [GC](2016)を引用)「異なる性的指向を持つ人々への平等で相互の尊重は、条約全体に内在する」ので、他のパートナーシップのあり方を犠牲にしてまで特定のあり方の関係を促進することは決して許容されるべきではない。しかし、それは本件の児童書には当てはまらない(第214段落)。むしろ、本児童書はまさに、スティグマの対象とされてきた社会的少数者への平等で相互の尊重を育むという目的で作成された。
その情報で描かれる性的指向に基づいて子供の情報へのアクセスを制限することは、「ある形態のパートナーシップ関係を他のものよりも優先する」という政府の選好を示しており、「同性同士の関係の既存のスティグマ化にを悪化させる」(Bayev and Others v. Russia(2017)を引用)(第215段落)。

4. LGBTQI+の権利擁護に向けたプロテスト参加者への警察による不保護を違法としたWomen’s Initiatives Supporting Group and Others v Georgia (2021)

事案

2012年、LGBTQI+の方の権利の保護団体が国際反ホモフォビアの日(5月17日)に平和的なプロテストを行いました。同団体は、警察に前もって警備を要請していましたが、当日プロテストの実施直後に、反対派から激しい暴言、身体的攻撃を受けました(なお、この警察の不保護について、欧州人権裁判所は、2015年に、今回紹介する判例の素地となる違法の判断を下しました。Identoba and others v. Georgia)。

翌年、同じNGOが、別のLGBTQI+の方の権利の保護団体と協力して、国際反ホモフォビアの日に、旧国会議事堂前の広場で平和的なプロテスト(無言の20分間のフラッシュ・モブのパフォーマンス)を計画しました。計画を知った対立派は、公然と、当日は抗議行動を起こして同プロテストを中止させる、NGOの特定メンバーを対象としたヘイト・スピーチを広めると宣言していました。 宣言を受けて、2つのNGOは当局にプロテストが無事に行えるよう、参加者を反対派から保護するように求めました。当局から参加者の安全に関する保証があったにもかかわらず、当日、プロテスト参加者は、当局の準備した退避用の車両に逃げ込む等したため直接危害を被ることはなかったものの、反対派による類を見ない激しい暴動が起こされ、計画されたプロテストは中止に追いやられました。 ジャーナリストが撮影した当時の映像には、当局がこうした暴動に対し黙認したり、一部積極的な参加をする様子が記録されていました。

ジョージア政府は、内部調査を開始しましたが、その調査は独立性と公平性に欠け、 暴動を起こした対立派の個人についての刑事手続きは、無罪か手続き上の遅延、または軽い行政罰の付与のみに終わりました。平和的プロテストを主催した2つのNGOは国内で救済が得られなかったため、欧州人権裁判所に提訴しました。

争点と判断

第一に、裁判所は、原告の計画した平和的なプロテストの当局による不保護が、以下の欧州人権条約の条項から導かれる当局のプロテストの保護義務に違反するか。→ する。
・①欧州人権条約第3条(非人道的または品位を傷つける取り扱いの禁止と第14条(差別の禁止)の組み合わせ
・②第11条(集会及び結社の自由)と第14条(差別の禁止)の組み合わせ

第二に、また、当局による不十分な事後の調査は 第3条(非人道的または品位を傷つける取り扱いの禁止)と第14条(差別の禁止)に違反するか。
→する。

下記では、第一の②(第11条(集会及び結社の自由)と第14条(差別の禁止)の組み合わせから導かれる当局のプロテストの保護義務)の理由付けを紹介します。

理由

裁判所は、まず、集会の自由、とりわけ社会的少数者の集会の自由について重要な一般論を確認します。

集会の自由に効果的な保障は、政府による不干渉だけではなく、政府が「多元的共存、寛容さ、寛大さ」の原則を最終的に保障する役割(to act as the ultimate guarantor of the principles of “pluralism, tolerance and broadmindedness")を果たすことを意味する。
・プロテストは社会のすべての構成員に好意的でないかもしれないが、プロテストの参加者は、身体的暴力の恐れから国家が彼らを保護することを期待して然るべきであり、国家のそうした義務は、特に少数派やあまり人気を得ていない意見を持つ人々にとって重要である。なぜなら、彼らはより犠牲にされやすい
(第83段落、Identoba and others v. Georgia(2015)、第93-96段落を引用)。

本件では、被告は、保護のためにできる限りのことはしたため、違法はないと主張しました。裁判所は、確かに、このような場合、政府にはプロテストが無事に行われるよう確保する手段を選択する自由があるが、本件において、被告は以下の具体的な措置を取るべきだったのにそれを怠った(第83段落)と認定しました。

・深刻な脅威を中和するために必要なリソースを適切な評価。つまり、警察は反対派の抗議活動の可能性と起こった場合の結果の重大性を十分に認識していたにもかかわらず、十分な人員を配置することなく、退避車両を準備して原告を退避させる計画しか行わなかった。このような態度は、国内当局にとって「原告のプロテストを無事に実施させることを軽視していたことを示唆している。
・政府は、原告のプロテストが無事に行われることを確実にするために取りうるあらゆる手段を使う義務があった。例えば、プロテストの前に、寛容で、対立をなだめるような姿勢を明確に擁護したり、潜在的な違反者に対して課されうる制裁の内容を警告したりする公共の声明を発するべきだった。(Identoba and others v. Georgia (第98-100段落)を引用)。

ここからは私見ですが、この三点目の、公共の声明を発するべきだったという点、政府に明確な行為規範を示しているという意味でとてもいい判示だと思います。少数者の集会の自由が問題になった事例ではありませんが、集会の主催者の反対派との紛争等による混乱等のおそれを理由とする公民館の利用申請の否定の合憲性が問題となった、いわゆる上尾市福祉会館事件の最高裁判決を思い出します。同判決は、「主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条等に反対する者らが、これを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことができるのは、前示 のような公の施設の利用関係の性質に照らせば、警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られるものというべきである」として、反対派との紛争が予見される場合には、平和的集会を諦めさせるのではなく、警察の警備により保護義務を導きました。この欧州人権裁判所の判例は、警察の警備に加え、プロテストの前に、声明を発出して、寛容で、対立をなだめるような姿勢を明確に擁護したり、潜在的な違反者に対して課されうる制裁の内容を警告するという、紛争の予防措置を取る(それにより無事にプロテストを行うことを可能にする)義務を政府に課しています。こうした声明を政府が発出すれば、より安心して少数派はプロテスト等を利用して声を上げやすくなりますし、言うまでもなく多数派の知る権利、民主主義にも資する結果となります。

例として、「あいちトリエンナーレ2019」での表現の自由展の中止問題についてあてはめてみます。こちらの記事で私が一橋大学ロースクール時代にお世話になった阪口先生がおっしゃるように、実行委員会の展示中止の決定の主な原因が、展示を「撤去しなければガソリン携行缶を持ってお邪魔する」とのファックスを実行委員会に送付するなど、展示物に批判的な市民の層の不寛容さにあったとすると、このような場合、河村市長は、公式の声明で、反対派をなだめたり反対派に暴徒化した場合に罰せられるリスクを周知するなど、展示の反対派が暴徒化するリスクを軽減する(それにより展示を可能とする)措置を取るべきだったわけで、逆に展示を「日本国民の心を踏みにじる行為」と評価して反対派に加勢してしまった河村市長の書簡は、表現の自由、民主主義の基本要素である「寛容さ」に逆行する明確な反面教師として整理されるべき、ということになるかと思います。

5.    日本の憲法に類似概念は内在するのか。

日本の判例で、社会的少数者による表現の自由が正面から問題になったケースは現時点で見つけられていないのですが、表現や民主主義の文脈ではないものの、近時、経産省によるトランスジェンダーの経産省職員のトイレ使用の制限について違憲と判断した最高裁判例の宇賀補足意見(「人事院の裁量権の行使において、上告人がMtFのトランスジェンダーで戸籍上はなお男性であることを認識している女性職員が抱くかもしれない違和感・羞恥心等を過大に評価し、上告人が自己の性自認に基づくトイレを他の女性職員と同じ条件で使用する利益を 過少に評価しており、裁量権の逸脱があり違法として取消しを免れない」としました)が、「多様性を尊重する共生社会の実現」のために、早期に職員の教育を通じてトランスジェンダーに対する理解の増進を図るべきであったという部分は、今回紹介した2つの欧州人権裁判所の判例にみられる「寛容、寛大さ」という欧州人権条約に内在するとされる価値の強調と相通ずるものを感じます。

上告人が戸籍上は男性であることを認識している同僚の女性職員が上告人と同じ女性トイレを使用することに対して抱く可能性があり得る違和感・羞恥心等は、トランスジェンダーに対する理解が必ずしも十分でないことによるところが少なくないと思われるので、研修により、相当程度払拭できると考えられる。上告人からカミングアウトがあり、平成21年10月に女性トイレの使用を認める要望 があった以上、本件説明会の後、当面の措置として上告人の女性トイレの使用に一 定の制限を設けたことはやむを得なかったとしても、経済産業省は、早期に研修を実施し、トランスジェンダーに対する理解の増進を図りつつ、かかる制限を見直すことも可能であったと思われるにもかかわらず、かかる取組をしないまま、上告人に性別適合手術を受けるよう督促することを反復するのみで、約5年が経過している。この点については、多様性を尊重する共生社会の実現に向けて職場環境を改善する取組が十分になされてきたとはいえないように思われる。


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