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『アイスクリームフィーバー』

 昨日も、アイスクリームをこぼした。アイスクリームは夏に食べたい。けれどアイスクリームはアイスクリームであるがゆえに溶ける。そこがたとえ室内で、冷房が効いていたとしてもそこにある冷房はけっしてアイスクリームを冷やすために息を吐いているわけではないから、室内でもアイスクリームはやっぱり溶ける。溶ける前は固形を保っているが、それを保っていられる時間には限りがあってそのあとは大変ベタつくから、コーンをぶん投げる佐保の気持ちもわからないでもない。アイスクリームがアイスクリームでいられる時間はあまりにも短い。それでもわたしたちは幼き頃からアイスクリームを繰り返し購入してひたすらに舐めては舌の上で溶かしている。線香花火にもたとえられようその食べ物はたしかに夏の一部であり、しかしながらわたしたちはそれが溶ける速度をコントロールすることができない。

 「最高の瞬間を目にすること」が生きる指針のひとつであるわたしにとって『アイスクリームフィーバー』は見たいものを見せてくれた映画だった。主題歌『氷菓子』にのせて夜の渋谷の街を菜摘と佐保が駆けるシーン。これが撮りたくてこの映画を撮ったのではないかと思うほど洗練された奇跡の瞬間で、イントロが流れてから佐保がスケボーで走り出す、その瞬間からもう鳥肌が立っていた。喧騒の最中のはずの渋谷の街をたった二人。

 物語や演出のすべてを受け入れられたわけではない。とくに小杉湯フリークのわたしにとって、高円寺に根差していることに意味がある小杉湯を恵比寿付近に据えた設定にしているのは軽率と感じざるをえなかった。小杉湯を、置き換え可能な——名もなき銭湯のロケ地として使うのは、この映画の客層相手ではそうとう難しいと思う。そういう、「まあ感じてくだはれ」という監督の姿勢が見え隠れする作品ではあった。

 それでも、鑑賞後は高揚感が残ったのである。見せたいものを見せられてしまった。上記の二人の疾走や、優と愛がイヤリングをつける場面。特に優と愛の場面、「不在」の描き方が真っ当でブレがない。画として書きたかったのが菜摘と佐保の場面であるならば、話として書きたかったのはこちらなのだろう。彼女たちの場面が、映画を映画として担保していた。

 「映画をデザインする」と千原監督は語っていたようで、タイトルロゴも、様々なカットもすべてセンスがいい。し、そのセンスが作品通して同じレベルで通底していた。ここはイケてるのにここはダサいという画が一切なかった。グラフィックデザイナーとしてトップランナーであることの片鱗を見せつけられた。

 渋谷を駆ける二人を見て不思議だったのは、夜の渋谷なのに人がまばらだったことだ。誰もいない夜の渋谷にはこんなにも丁寧な光が注ぐのか。けれどこの光は、群衆が集うから灯されているものである。群衆がいないと光らないこの街を背景にして、二人だけが駆けている、この場面がほんとうに夢の中のようで、映画としての奇跡はそこにあったと思う。

 「百万年君を愛す」はウォン・カーウァイの『恋する惑星』からの引用であろうし、突如挿入される、詩羽演じる貴子が踊る場面はフェイ・ウォンのオマージュだろう。描いた時代こそ現代でありながら、現代を通して過去を描いている。やはり作り手の顔が見える作品というのはいい。自分が描きたいものの根っこがしっかりしていてそこがブレないから、あとは合う合わないの話であり、わたしはこの人の映像がとても好きだった、ので、不思議と悪くない、どころかどこか冷めない熱を持ったまま、筆を取ってしまっているのである。

 熱。人間の熱でさえ、スルスルと上がったと思えば、また平熱に戻っていく。体に溶けていくように、自然に。アイスクリームのような熱情か、と思いながらつつくアイスクリームが人生で何食目なのか、わたしはわかっていない。

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