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情熱は冷めても愛情は残る

 渋谷のタワーレコードの1階では、注目の新譜が大きく展開されている。ストリーミング時代において、CD屋さんが複数フロアで成り立っている奇跡。久々に立ち寄ったそこで、TWICEが妹分のITZYとコーナーを分け合っていて、しかもITZYの方はパネル展まで催されていて、こんなことがあってなるものか、厳に年功序列なK-POPの文化に沿わなくてどうする、と憤っていた。しかしTWICEはすでに発売2週目に入っていたようで、先週までは大パネル展を展開していたらしい。発売翌週になってCDを探しにくる、そんな自分自身のお熱の冷め具合を実感したのだった。前の前の前のシングル、『HAPPY HAPPY』と『Breakthrough』はそれぞれ10枚ずつ購入したというのに。客単価が下がった私は、『Kura Kura』の初回盤Aを求めたがタワーレコードでは完売していて、TSUTAYAでキンプリのオタクの方々の間を這うようにしてすり抜け、無事購入した。MVとジャケット撮影のメイキング映像が特典だ。推しが話しているのを日本語字幕付きで見ることができる。けれど画質はDVDだ。推しを1080p以下の画質で眺める苦行はなんだろう。坂道シリーズの付属映像が、ある時から全てBlu-rayになったことは、オタクの網膜および眼球にやさしい。

 コロナ禍と社会人生活の始まりが重なったものだから、かつての日々を顧みるとアルバムを捲るような心地になる。物理的にそれほど遠くにあるわけではないはずなのに。ましてや大学5年生を経たものだから、同期といた4年間を思い出すことはより難しくなる。私の大学5年生といえば、3割ほどの時間はパクジヒョを見ていたことに終始するので、大学時代のほとんどはTWICEと共にあったのではないかと錯覚するのだけれど、『TT』が爆発的ブームを巻き起こしたあの頃、私はまだTWICEに見向きもしなかったし、ジヒョのことを認識すらしていなかった。人生でアイドルにハマったこともほぼなかった。そんな人間が、ハイタッチ会で推しを目の当たりにして、実在を確信すると同時に羞恥心、罪悪感が込み上げて、推しを推すのは画面越しまたは観客席からだけでいいと、まだそれが求められていなかった頃なのに推しとの社会的な距離をとったり、ともかくそこには本気の感情があった。お熱だ。たった一年間で、四年分の情熱を私は注いでいたのかもしれない。

 ミニキッチンで自炊をするようになって、食べ物が冷める早さに気がついた。一品完成させて、次の一品をまた完成させて、いざ食事となった時、前者はどこかしら活力を失っている。電子レンジを持たないという一人暮らしにおける究極の縛りプレイを未だ継続している自分は、それらを蘇らせる術を持たない。したがって、熱は失われるという事実を認めざるを得ない。熱さを失った食べ物たちから湯気は出ない。触れるとひんやりする鉄の棒だって、製造過程では熱を持たされていたはずだが、街に立ち並ぶ頃には、落ち着きを保ちながら鎮座している。でも、たしかに熱を持っていた。

 『大豆田とわ子と3人の元夫』を見ていたら、番宣CMでTWICEが出てきた。依然来日できる状況にないためリモート出演。何をやるんだと思ったら、どうやら占い企画らしい。TWICEを占おうなんて傲慢な占い師もいるものだなと思っていたが、拾い画でチェヨンが「私は占いには興味ありませんが〜」と言っているのを見て妙な安心感を得た。TWICEを取り巻く日本のメディアのワンパターンさにはオタク時代に辟易とさせられたし、かといってそれを一方的に糾弾するのもただのオタクの独りよがりなお気持ち表明でしかない、なんていったって本人たちは仕事としてそれら一つ一つに臨んでいるのだから、でもさあ、とどうしようも無い逡巡を続けたりしていたことが思い出される。そういうかつての情熱が、今の自分に小さな安心感を与える。ナヨンとジヒョが歌うサビに納得の頷きをするオタクの心のうちはこれである。

 すね毛にガムテープを貼って、思いっきりめくるとかなりの量の毛が失われるが、それでもなお残るものが一部あるように、愛情もひどく粘り強い感情だと思う。結局自分の手元には『Kura Kura』の初回限定盤Aが在る。「誰かを好きって気持ちはずっと残り続けるものなのにね」と、坂元裕二作品の普遍的テーマのような言葉をナチュラルに語る人に出会った。客単価が下がったオタクの葛藤は、人生における重要なテーマの一つに肉薄していたのかもしれないと思った。


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