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傾いた標識の寿命、曲がり角エッセイ

 片側1車線の小さな道路、車道のようで歩道のような道の傍らにある標識は意外と傾いていたり、根に近い部分が湾曲していたりする。しかし彼らは確かに立っており、すぐに倒れそうな気配はみせない。そんな彼らの寿命のことを思った。今どれほど安定を誇っていたとしても、やはり傾いている以上は、誰かが何かしらの手を加えない限り、いずれさらに傾き、その頭は地につく。おそらくその時が寿命なのだろう。

 しかしその寿命は延ばすことができる。例えば足元を掘り出して、真っ直ぐ立て直し、再び土台を固定すればどうだろう。仮に50年あった命が倍になることも、あるのかもしれない。

 逆に、寿命なんて初めから決まっていなかったのではないか、と思うことも起こり得るだろう。例えば地震が起きて、足元の基礎にヒビが入ってしまって、いやそれだけではすぐに倒れないにしろ、なぜかそのままにされてしまって、突然ある日——とか。

 寿命を他者や時世による意思決定に左右されてしまうこともあるのかもしれない。この標識は古いし、変えましょう。新しいものに据え変えられ、処分される。交通ルールが変わった。この標識はそぐわないね。街の姿が変わった。そもそもここも道路になるから、ここに標識があったら邪魔だ。

 5分で考えうるだけでこれだけの分岐、可能性があるのに、どうして寿命なんて決められよう?私はまだあと70年は生きるだろうとかボンヤリ考えているがそれは確実ではない。身内は誰も95歳まで生きてみせてやしない。勝手に癌治療や人類の寿命の進化を過信して、ライフプランを描けるというのか?

 大学生の時に、noteで「〇〇分しかない」とバイトまでの残り時間をタイトルにして実際にその時間内でエッセイを書いたことがあった。言葉とは裏腹に、あの時は時間に溢れていた。溢れかえった時間の中で切り取られたものに過ぎなかった。アルバイトに向かうまでの時間はあまりなかったかもしれないが、大学生活という時間は湯水のように溢れかえっていた。全ての瞬間、この瞬間がずっと続くと思っていた。一生こんな感じなのだと思っていた。時間の概念ってなくなるんだ、と思っていた。

 だから、あの2020年2月あたり、大学卒業を控えた時の気の落ちよう(『ジョーカー』を観て、俺は実は、卒業に必要な単位を取りこぼしたのではないか、と不安になりしばらく精神的に落ちた)というのは、おそらく初めて時間を認知し、その有限性を知ったからなのだと思われる。限りがあることの辛さと怖さよ。このことをずっと語っている気がする。身の回りにはなんなら30くらいで死にたいとか死んだらみんな忘れてほしいとかそういう人がそれなりにいるが、自分は真逆でとてつもなく長生きをしたいし、できる限り覚えて欲しいし、そのためにこうして文章を書いている。例え匿名であっても、ということなのだ。これらはおそらく、限りあるものへの恐れからだ。恐れなのか畏れなのかどちらなのだろう。畏怖。if。もし私の寿命が明日だったら、そんなことを考えるだけでめちゃくちゃ怖い。

 前回藤井風くんの限りあるものに対する態度が凄まじい、ということを書いたがこうして明日かもしれない寿命に備えているので、私は常に長期的プランが欠如している。貯金が苦手。目の前のデートが楽しすぎて男性としての振る舞いを忘れ異性として意識されない。

 ここまで読んでいただいて気づかれただろうが、矛盾でしかないのだ。長生きしたいのは明日死ぬかもしれないからなのだ。明日死ぬかもしれないという恐れが私を長生き願望に駆り立てている。長期的プランを欠如しながらも長生きを望むという、異物を生み出しているのである。

 標識が迎える運命は今のところ国土交通省でさえも知らないところだろう。奴らは根本が湾曲していた。これから先の道のりが一筋縄ではないことを示すかのようだ。3年前に『光は屈折する』という脚本を書いた。その中で「この世で一番速い存在である光ですら屈折するんだよ、だから私たちの人生だって何度も曲がって(変化して)当然だ」というセリフを書いた。次の曲がり角はいつか、とか呑気なことを言っていたら明日やってくるかもしれない。寿命は結果論でしかない。「やがて来るそれぞれの交差点を」当然の如く迎えウインカーを出して、各々進むしかないのである。

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